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戦国武将解説

織田信忠(おだ-のぶただ)信長長男は岐阜城主、勇猛過ぎた?最期

目次

プロフィール詳細相関図関連記事参考文献

プロフィール

織田信忠
Nobutada Oda

信長の長男で家督。岐阜城主。幼名は奇妙丸。

信長が安土に移ると、岐阜城主として尾張衆や美濃衆を一手に束ねる。また信長に代わって松永久秀の信貴山城攻め等、織田軍団の総指揮を取った。

甲州攻めでは先鋒(せんぽう)大将として武田勝頼を滅ぼす。しかし本能寺で明智光秀に父・信長が討たれてしまい――!

享年26(1557-1582)。同い年は山内千代。弟の信孝信雄より一つ年上。

詳細

1.岐阜城主

織田信忠信忠は、織田信長織田信長の長男で幼名は奇妙丸。親からそんな名前をつけられてしまったにも関わらず、奇妙丸はぐれもせず、信長の期待に添う武将に成長し、織田家の家督を継ぎました。

天正九年の時、信長は能にのめり込み過ぎた信忠を勘当しました。信忠の能のハマり方は、舞台の鑑賞だけでなく、自ら舞台に立って演じるほど。しかしそれ以外、目立った失敗もなく、信長はそんな優秀な息子・信忠に目をかけていました。

それにしても、信忠は織田家のお飾りではありませんでした。信忠は岐阜城主であり、また旗本、尾張衆、美濃衆を一手に束ねています。信長に代わって松永久秀の信貴山城攻め等、織田軍団の総指揮を取り、キッチリ成果も出せる武将なのでした。

2.武田勝頼を滅ぼす

長篠の戦いで武田軍に圧勝した信長は、天正一〇年二月、武田勝頼武田勝頼討伐の大軍を発しました。

信忠は先鋒(せんぽう)大将として、尾張・美濃衆の兵を率いて信濃(長野県)に進撃。一ヶ月たらずで甲斐(山梨県)の天目山で勝頼を滅ぼすと、その首級を美濃(岐阜県)の岩村に布陣していた信長に進上しました。

信忠の活躍はこのように目覚ましかったので、信長自身が信濃に足を踏み入れた時は、武田氏が滅びたあとでした。その後、信忠は武田氏の一族余党を厳しく捜索。甲斐の恵林寺の長老・快川紹喜(かいせん‐じょうき )が反・信長の六角次郎らをかくまっているという理由で、快川及び寺僧150余人を焼き殺してしまいました。

3.本能寺の変

天正一〇年に武田勝頼を滅ぼした信忠は、豊臣秀吉羽柴秀吉の毛利攻めを救援するため出陣するにあたり、五月二一日に京見物に赴く徳川家康徳川家康とともに京の妙覚寺に宿泊しました。

六月二日の早朝、父・信長が京の本能寺で明智光秀明智光秀に襲撃されたことを知ると、救援に向かおうとしました。しかしすぐに本能寺が焼け落ちたことを知り、二条御所に入って明智光秀軍と戦います。衆寡敵せず、信忠は自刃(じじん)しました。享年26。

信忠は仁科盛信の高遠城を5万の大軍で攻めた際、自ら城に登って軍の先頭に立って指揮をとりました。本能寺の変の際に逃げられたはずなのに戦死したのは、その勇猛さが災いしたようです。

織田信忠 相関図

家族と親族

お父さん:織田信長織田信長/長弟:織田信雄織田信雄/次弟:織田信孝

いとこ:淀殿(茶々)素材淀殿(茶々)お初(常高院)素材お初お江(小督、江与)素材お江

仕事仲間

甲州征伐の時、信忠を滝川一益が補佐しました。

ライバル

武田勝頼武田勝頼 明智光秀明智光秀松永久秀

  

関連記事

織田信忠

素材:肖像織田木瓜信長家臣団相関図

参考文献

国史大辞典編集委員会 (著)『国史大辞典 第2巻 う~お 』(吉川弘文館、1980年)

谷口克広『信長軍の司令官―部将たちの出世競争 (中公新書) 』(中央公論新社、2005年)

谷口克広・伊澤昭二・大野信長『図説・戦国武将118―決定版 』(学研、2001年)

小和田 哲男監修『ビジュアル 戦国1000人 ―応仁の乱から大坂城炎上まで乱世のドラマを読む 』(世界文化社、2009年)