プロフィール
信長の長男で家督。岐阜城主。幼名は奇妙丸。
長篠の戦い後、信長から尾張・美濃の支配権を譲られて岐阜城主となり、旗本、尾張衆、美濃衆を一手に束ねる。
石山合戦に奮戦していた松永久秀が謀反を起こし、信貴山城に立てこもると、信長に代わって数万騎をもってこれを攻めた。
甲州征伐では先鋒大将ととして大軍を率いて進撃。親に逆らわない子の快進撃はどこまで続く――!?
詳細
1.伊勢長島一向一揆
元亀元年(1570)九月本願寺顕如が信長に蜂起。これにより各地の一向宗徒はもちろん、同年に姉川の戦いで信長に敗北した浅井長政・ 朝倉義景らと手を結び、反信長包囲網を作り上げました。
同三年(1572)正月、信忠は岐阜城において元服。同年七月に信長に従って近江小谷城の浅井長政を攻めたのが初陣でした。再び越前に侵攻した織田軍に攻められた朝倉義景は同年八月に自害。これにより小谷城は完全に孤立し、織田軍に包囲されて浅井長政も同月に自害しました。
天正二年(1574)七月、信長四一歳は信忠一八歳を従えて、伊勢(三重県)長島の一向一揆攻めのため岐阜を出発。長島の者は降伏して、船に乗って退去しようとしましたが、織田方の攻撃で大半が撃たれ、長屋・中江の城にこもっていた男女併せて二万人は火をかけられて殺されました。
2.長篠の戦い
信長と対照的に神仏を尊崇している甲斐の武田信玄は、足利義昭に上洛を促され、元亀三年(1572)一二月三方ヶ原にて信長の同盟軍である徳川家康を破りました。
かくして信玄は、北条方の援軍を合わせて三万の大軍をもって西上。しかし天正元年(1573)四月信州駒場で病死しました。
信玄死後の三ヶ月後、家康が兵を従えて武田方の三河長篠城を包囲。家康は長篠城を手に入れましたが、これを奪還すべく武田勝頼が長篠城を包囲。家康は信長に援軍を依頼。
同三年(1575)五月に長篠の戦いがおこり、信忠二一歳も従軍。織田・徳川連合軍は鉄砲をもってして武田騎馬隊を破り、一年半前の三方ヶ原の雪辱を晴らしました。
その余勢をもって信長は信忠に三万の兵を与え、武田氏支城の美濃岩付城を攻撃させました。ここは信玄侍大将・秋山信友四五歳が守っている堅固な山城で、容易に落ちません。
信忠は作戦を兵糧攻めに変更しました。実のところ秋山信友夫人は信長の叔母。籠城すること五ヵ月、信友は開城を条件に降伏しました。しかし信長はこれを認めず、信友は岐阜に送られ処刑されました。
同四年(1576)二月信長が近江安土山に築いた城に移ると、信忠は尾張・美濃の支配権を譲られて岐阜城主となり、旗本、尾張衆、美濃衆を一手に束ねることになりました。
3.松永久秀を討つ
一方、織田方として松永久秀も石山合戦に従軍し、摂津にて雑賀衆の鉄砲攻撃に奮戦。しかし同年一〇月に謀反を起こし、大和国(奈良県)信貴山(しぎさん)城に立てこもりました。
信忠二一歳が信長に代わって数万騎をもってこれを攻め、久秀は自害しました。
天正九年(1581)信長四八歳は、能にのめり込み過ぎた信忠二五歳を勘当しました。信忠の能のハマり方は、舞台の鑑賞だけでなく自ら舞台に立って演じるほど。しかしそれ以外は目立った失敗もなく、信長はそんな優秀な息子に目をかけ続けました。
4.甲州征伐
長篠の戦いで武田軍に圧勝した信長は、同一〇年(1582)二月、武田勝頼討伐として一八万八〇〇〇の大軍を発しました。
先鋒(せんぽう)大将は信忠二六歳、これを滝川一益五八歳が補佐。尾張・美濃衆の兵を率いて信濃(長野県)に進撃しました。
信濃高遠城を守っている勝頼異母兄の仁科盛信は、信忠の降伏勧告を拒否。信忠は五万の大軍で攻め、自ら城に登って軍の先頭に立って指揮をとりました。
盛信以下の城兵は奮戦するも落城。この報せを聞いた勝頼は、自身の居る新府城だけではもちこたえられないと、この城に火を放ちました。
勝頼一行は逃走するも力尽きて、甲斐天目山にて自害。討伐軍を発してから一カ月たらずのことで、信忠はその首級を美濃(岐阜県)の岩村に布陣していた信長に進上しました。信忠の活躍は目覚ましかったので、信長自身が信濃に足を踏み入れた時は、武田氏が滅びたあとでした。
その後、信忠は武田氏の一族余党を厳しく捜索。甲斐の恵林寺(えりんじ)に住む快川紹喜(かいせん‐じょうき )が反信長の六角次郎らをかくまっているという理由で、快川及び寺僧一五〇余人を焼き殺しました。一八歳の時に信長に従軍した伊勢長島一向一揆攻めが思い出されます。
このとき恵林寺も焼失しましたが、 家康によって再建されました。
5.本能寺の変
武田勝頼を滅ぼした信忠は、羽柴秀吉の毛利攻めを救援の求めに応じ、信長が中国征伐に出陣するにあたり、信忠は同年五月二一日に京見物に赴く家康とともに京の妙覚寺に宿泊しました。
六月二日早朝、父信長が京の本能寺で明智光秀に襲撃されたことを知ると、救援に向かおうとしました。しかしすぐに本能寺が焼け落ちたことを知り、所司代の村井貞勝と誠仁親王の御所である二条御所に入りました。
貞勝は「親王は退去されるべきだ」と信忠に進言し、親王一族は難を逃れましたが、信忠と貞勝は討死にしました。享年二六。
本能寺の変の際に逃げられたはずなのに戦死したのは、仁科盛信を高遠城に攻めた際の勇猛さが災いしたようです。しかし父を失ったことにより、始めて信忠らしさを見せてくれた気がします。
織田信忠 相関図
織田氏
甲州征伐
- 信忠を滝川一益が補佐
ライバル
参考文献
- 今井林太郎「織田信忠」『国史大辞典2』(吉川弘文館、1980年)849頁
- 谷口克広『信長軍の司令官-部将たちの出世競争』(中央公論新社、2005年)
- 谷口克広 解説「織田信忠・信雄・信孝」『図説・戦国武将118-決定版』(学研、2001年)76頁
- 小和田哲男 監修『ビジュアル 戦国1000人』(世界文化社、2009年)「織田信忠」24頁