前史
封建社会では、農業生産がその経済的な地盤となります。従って戦国時代の大名領主は何をおいても、土地制度を確立しなければなりません。その第一歩が検地(けんち)でした。
すでに荘園の複雑な領有関係を脱却し、土地人民に対する完全支配が進行してゆくにつれて、戦国諸侯は自分の手の標準によって検地を行い、またその検地によって完全支配をおし進めていきました。
今川・
北条・朝倉・
武田・
上杉・
織田らの諸氏にもその例が見ることができます。
太閤検地とは:概要
秀吉になると、天正一〇年(1582)本能寺の変の翌月には、山城の指出(さしだし)すなわち土地台帳の基礎を提出させています。
こうして九州が服すれば九州に、奥羽が服すれば奥羽に、そして朝鮮にまでこれを実施。そうした秀吉が実施した検地の総称を、太閤検地と言います。朝鮮出兵に際しては、石高によって組織し、兵糧米と軍役数の確保する目的がありました。
一揆の発端にも
検地の際の測量方法は今日のごとく正確でなはく、検地奉行以下の手心が加わる余地がありました。そこで過酷な検地に反抗して一揆を起こしたりすることもありました。
奥州仕置に際して秀吉は、検地奉行・浅野長政に対して「検地について不届きのものがあれば、一郷も二郷も撫斬(なでぎり)にせよ」という発令。検地の後には葛西・大崎一揆がおこりました。
佐々成政は肥後に入国した時に行った検地に反抗されて、やがて没落する原因となり、天草一揆の遠因も寺沢氏の過酷な検地がありました。
大まかな?統一事業
面積の単位
検地では、田畑・屋敷の一筆(いっぴつ:ひとくぎりの田畑・宅地。)ごとの測量が行われ、面積を算定。
面積の単位である「町(ちょう)」と「反(たん)」をそれぞれ「歩(ぶ)」に換算してみると、一町は三〇〇〇歩、一反は三〇〇歩となります。これは太閤検地で定められた比率で、そのまま今日に至っています。
しかし面積の単位が秀吉以来、全国的に統一されたというと必ずしもそうではなく、民間では今でも苅・蒔(まき)などの単位を用いている地方もあります[註1]。これらは面積そのものを表すというよりは、収穫量・播種(はしゅ)量・労力量など起こった言葉だったので、段(反)との関係は一定していませんでした。
秀吉の面積の単位統一は公簿の上だけといってよいでしょう。しかし貢租(こうそ)その他の関係は公簿によるのであり、やはり重要な意味を持っています。
石盛
検地においては、まず土地を測量して、ついで地味(じみ:土質の良否)をその他を考えて石盛(こくもり)します。則ち田畑一反あたりの高(たか:生産量)を決めます。
秀吉が文禄三年(1594)に島津氏の領地を検地した時には、上ノ村・中ノ村・下ノ村・下々ノ村と四つに分け、村の等級によって差異がありました。
秀吉が示した基準
- 上ノ村:上田16、中田14、下田12、上畑12、中畑10、下畑8
- 中ノ村:上田14、中田12、下田10、上畑10、中畑8、下畑6
- 下ノ村:上田12、中田10、下田8、上畑8、中畑6、下畑4
- 下々村:上田10、中田8、下田6、上畑7、中畑5、下畑3
江戸幕府の基準
- 上田15、中田13、下田11、上畑11、中畑9、下畑7、屋敷11
注:15とは、玄米1石5斗を産することを示す。
上記のとおり秀吉と江戸時代で「時」によって違いがあり、時同じくしても「地域」によっても古文書ネットに示した通り違いがあります。
小農民自立政策論
秀吉の検地は、現実の耕作者を検地帳に登録し、隷属的な小農民を自立させるという積極的な意図のもとに行われたという説があります。
検地帳面にある百姓の中には、田畑だけあって屋敷のない者があるためなどが理由です[註2]。
一方、屋敷がない者が常に隷属農民とはいえず、隠居した者や二男三男、他村からの入作者もあろうとして、太閤検地において小農民自立政策が執られたとしても、部分的であるとした反対意見もあります。
「平野荘郷記」に「戦国とて世の乱れた時には、どの村も人数が多くて家の軒数が少ない。そのわけは、軍役といって銭や米穀などの掛り物が多いので、一軒のうちを仕切って何人も住居したということである。検地帳に名請(なうけ)人数が多く屋敷の名請の少ないのはそのためである。」とあります。
上記を紹介したうえで児玉幸多先生[文献1]は、小農民が自立の方向に向かっていたことには、だれも異議はないだろう。秀吉の検地に際しては、そうした実情に応じ或いは傾向に添うように執られた、としています。
補註
- たとえば百苅は一段と限っていないで、美濃では六十苅を一段とするなど。蒔は田に用いられ、二升蒔・一斗蒔などという。
- 検地奉行・浅野長政が天正一五年(1587)に越前に出した法令の中には「おとな百姓が下作百姓に作らせて作合(さくあい)を取ってはならない。今まで作っている百姓が年貢を直接納めるようにせよ」とある。
参考文献
- 児玉幸多『近世農民生活史』(吉川弘文館、2006年 )「二 租税制度 1.検地」12-28、32-34頁
- 秋山高志・前村松夫・北見俊夫・若尾俊平 編『図録 農民生活史事典』(柏書房、1991年)「1.検地_田地」43頁