徳川家康の一族
祖先
父:松平広忠、母:於大(おだい)の方
妻:一七人
正室
- 築山殿(つきやまどの):母は今川義元の妹。子は信康と亀姫。信長に武田勝頼との内通を疑われ、家康の家臣により暗殺された。享年三八
- 旭姫:実際は人質。秀吉の妹。家康四五歳、旭四四歳のときに盛大な結婚式が行われた。享年四八
側室
- 西郡局(にしごおりのつぼね):岡崎城時代唯一の側室。子は督姫。伏見城で頓死。
- お万(まん)の方:築山殿の侍女。妊娠して築山殿の怒りを買う。子は結城秀康。秀康三四歳死後出家。
- 西郷局(さいごうのつぼね):子は三男秀忠、四男忠吉。お愛の方、お丁の方とも。三〇歳ころに死去。
- 阿茶局(あちゃのつぼね):武田家臣(飯田直政)の娘。家康の信頼厚く、政治面で重要な役目を果たし、大坂の陣では東軍方として西軍方お初と交渉も。
- その他:茶阿の方(子は忠輝ほか)、お亀の方(子は義直ほか)、蔭山殿(お万の方とも呼ばれ、子は頼宣・頼房)、お八の方(三六歳下、子の市姫は早世)など。
子ども:実子一六人
男子
- 松平信康:長男。母は築山殿。信長の娘徳姫と結婚。武田勝頼との内通を疑われ、信長の厳命により家康も無念の思いで切腹させた。享年二一
- 結城秀康:次男。母はお万の方。一一歳で秀吉の養子となり、かわいがられる。のち下総の結城晴朝(はるとも)の娘婿。関ヶ原の戦いのあと、家康から越前六八石を貰い、福井松平家の祖。享年三四。
- 徳川秀忠:三男。母は西郷局。将軍職を継ぐ。妻はお江。
- 松平忠吉:四男。母は3.同上。妻は井伊直政の娘。関ヶ原の戦いの戦功により尾張清洲に五二万石を与えられるも二八歳で死去。跡継ぎなく家は絶えた。
同:御三家
- 尾張義直(よしなお):九男。家康五七歳のときの子で、母はお亀の方。幼名は五郎太または五郎丸。七歳のとき、若死にした兄・松平忠吉の遺領を継ぎ尾張名古屋藩初代。妻は浅野幸長の娘。家康の遺訓に従い儒教を奨励、城内にわが国最初の孔子廟を建立。享年五一
- 紀州頼宣(よりのぶ):一〇男。母は蔭山殿。家康の死後、秀忠により紀伊五五万石に転封され、和歌山藩初代。妻は加藤清正の娘。享年七〇
- 水戸頼房(よりふさ):一一男。母は10.同上。水戸藩初代。二八万石。水戸滞在は短く、江戸にて指示。享年五九
娘
- 亀姫:長女。母は築山殿。家康が武田氏と対抗するため、天正四年奥平信昌(貞昌)と結婚。享年六六
- 督姫:次女。母は西郡局。北条氏直、のちに池田輝政に嫁ぐ。
- 振姫(ふりひめ):三女。会津の蒲生秀行(氏郷の子)と結婚するも死別。家康の命により二人の息子を会津に残したまま、浅野長晟(幸長の子)に再嫁。光晟を生んだが産後の肥立ち悪く三八歳で没す。
家臣
参考文献
- 奈良本辰也(監修)『戦国武将ものしり事典』(主婦と生活社、2000年)「名将をめぐる女たち」224-228頁「子ども・養子の横顔」265-267頁
- 小和田哲男「徳川氏」左同(監修)左同・菅原正子・仁藤敦史(編集委員)『日本史諸家系図人名辞典』(講談社、2003年)431-436頁