島津氏:しまづし
薩摩(鹿児島県)の守護、戦国大名、近世の外様大名。本姓は惟宗(これむね)氏。近衛家の家司(けいし)惟宗氏の一族忠久(ただひさ)が、文治二年(1186)南九州の地頭になり、島津氏を称しました。
系図
中世
- 忠久:島津氏初代。鎌倉時代の武将。源頼朝の奥州藤原攻めに参加。その後、薩摩・大隅(おおすみ)・日向の守護。
- 忠時:忠久長男。父の没後、薩摩守護を継ぐ。享年七一。
- 久経(ひさつね):忠時の子。弘安の役(元寇)で、薩摩の御家人を率いて壱岐にわたり奮戦。享年六〇
- 忠宗:久経長男。父とともに弘安の役で元軍と戦う。弘安七年(1284)薩摩守護を継ぐ。和歌に優れ「新後撰和歌集」「続千載和歌集」にその歌が見える。享年七五
戦国時代
- 忠昌(ただまさ):薩摩・大隅・日向の守護。一族の武将の反乱、有力国人の争いなどで領国が弱体化。家臣の伊地知(いじち)重貞に「大学章句」を刊行させる等、朱子学の興隆につとめた。永正五年(1508)自殺。享年四六
- 勝久:忠昌三男。父の自殺後、長兄で一二代・忠治が二七で死去。次兄で一三代・忠隆は二三で死去し、嗣子がないため跡を継ぐ。弱体化した本家を立て直すべく、傍系の貴久を養子に迎える。天文四年(1535)に貴久に追放され、天正元年(1573)一〇月に豊後(大分県)で死去。享年七一
- 貴久:相州家島津忠良の子。父忠良と共に勝久を追放し、薩州家の実久を破り、薩摩・大隅・日向守護。居城を伊集院から鹿児島に移し、戦国大名の基礎を築いた。子に義久・義弘・歳久・家久。享年五八
四兄弟
- 義久:貴久長男。弟義弘と共に九州全域を平定。秀吉に敗れ、薩摩領有は許されるも、隠居を命じられる。しかし家中の実権を掌握。享年七九
- 義弘:貴久次男。秀吉の命で義久の跡を継ぐ。文禄・慶長の役に出兵、関ヶ原の戦いでは西軍に属す。
- 歳久:貴久三男。秀吉の九州攻めで兄義久が降伏も、最後まで抵抗。天正二〇年(1592)、梅北国兼が肥後(熊本県)佐敷で起こした梅北一揆に、歳久の家臣が多く加担、秀吉の怒りを買い自刃させられた。享年五六
- 家久:貴久四男。九州攻めの際、豊臣秀長に降伏。佐土原の引渡しを拒んだだめ、天正一五年六月、秀長の陣所で毒殺されたという。享年四一
近世:薩摩鹿児島藩
参考文献
- 小和田哲男「島津氏」左同(監修)左同・菅原正子・仁藤敦史(編集委員)『日本史諸家系図人名辞典』(講談社、2003年)344-348頁