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戦国人物解説

真田幸村(さなだ-ゆきむら)経験不問の不思議なる弓取り

目次

プロフィール詳細:1.長いモラトリアム 2.真田丸の攻防

3.何度でも―家康本陣へ相関図関連記事

プロフィール

真田幸村
Yukimura Sanada

信濃(長野県)出身の武将。幼名は弁丸(べんまる)。本名は信繁。

関ヶ原の戦いでは西軍に与(くみ)し、父昌幸と共に徳川秀忠軍の進軍を上田城で阻止。

しかし現地関ヶ原で西軍が敗北したため、紀州九度山にて約一五年を過ごす。豊臣秀頼からの誘いを受けて、大坂城に入る。

冬の陣では真田丸という出城を築いて、徳川方に苦戦を強いる。

夏の陣。狙うはただ一つ、家康の首。一直線に家康本陣に向かう――!

享年49(1567-1615)。

伊達政宗立花宗茂姜沆と同い年。

詳細

1.長いモラトリアム

真田幸村幸村は、信濃上田城主真田昌幸昌幸の次男。関ヶ原の戦いでは西軍に与(くみ)し、東山道を通り関ヶ原に向かう東軍徳川秀忠徳川秀忠の大軍を、父昌幸と共に上田城で引き付け、その進軍を阻止しました。

しかし現地関ヶ原で西軍が敗北したため、幸村は昌幸と共に紀州(和歌山県)九度山(くどやま)に蟄居させられました。

九度山蟄居時代には、苦労の余り歯が抜け、髭が白髪になったと切ない心境を語った書状が現存します。約一五年の月日が経った時、九度山の幸村に豊臣秀頼豊臣秀頼から誘いがかかります。昌幸はもうこの世にありませんでした。

2.真田丸の攻防

実は幸村のそれまでの実戦経験は意外に少なく、豊臣側からしてみると彼を召し抱えたとしても、その実力は未知数。幸村自身もそのように感じていたでしょう。

遡って天正一八年(1590)幸村二四歳は、大谷吉継の娘・安岐(あき)と結婚。安岐は二男六女を生みました。夫に従い九度山に蟄居、大坂入城にも従いました。

また豊臣は、兵力の上では明らかに徳川勢に劣っていました。一方の徳川家康徳川家康は、大坂冬の陣に際し、真田の大坂入城を聞いた際に思わず「親の方か子の方か」と聞いたそうです。

しかしその問いの意に反して「子の」幸村は、慶長一九年(1614)大坂城南東に築いた出城「真田丸」(さなだまる)に籠り、不用意に押し寄せる徳川勢を散々に悩ませました。冬の陣における徳川方戦死者の八割は、真田丸の攻防によるものと言われています。

3.何度でも―家康本陣へ

翌年の夏の陣。速さと破壊力を兼ね備え、大変恐れられていた伊達政宗伊達政宗の騎馬鉄砲隊に、大坂方の後藤又兵衛は胸部を撃たれて戦死。

幸村は兵を木陰や岩陰、草むらに伏せさせ、騎馬鉄砲隊が近づいたところの側面を突然槍で突かせました。騎馬鉄砲隊は苦戦を強いられ、撤退しました。

幸村の狙いはただ一つ「家康の首」。

大坂方のどの軍も家康の本陣に近づけませんでしたが、真田隊は一直線に家康本陣に向かい、死者が続出しても突進を続けて、ついに家康の旗本へ突っ込みました。

旗本は混乱し、二度まで突き崩され、命からがら逃げ出しました。武田信玄三方ヶ原の敗戦後、傾いたことがない金扇の馬印も、ついに地に伏して砂塵にまみれました。家康本人は慌てて走り、その場を逃れました。三度目に突入したとき、幸村はついに討ち死にしました。

多勢に果敢に挑んだ幸村でしたが、普段は温和な人だったようです。妻の安岐は、大坂城落城前に子供らとともに脱出、捕らえられましたが釈放されました。一方、幸村長男・幸昌(ゆきまさ)一三歳は、夏の陣で秀頼が自刃(じじん)するとそれに殉じて、幸村系統は断絶しました。

さだめなき浮世にて候えば、一日さきは知らざることに候(幸村が大坂城から姉婿にあてた絶筆)

真田幸村 相関図

真田氏

  • 父:昌幸
  • 母:山之手殿(やまのてどの:宇多頼忠の娘)
  • 兄:信之
  • 妻:安岐(あき:大谷吉継の娘)。

安岐との子

  • 長男:幸昌(大助)
  • 次男:守信(もりのぶ)-辰信(たつのぶ:幸村の孫)
  • 次女:梅。片倉重綱の正室。
  • 三女:あくり。蒲生郷喜(氏郷の重臣)室。

大坂の陣

味方

参考文献

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真田幸村:肖像素材イラスト