目次
プロフィール

信濃(長野県)出身の武将。幼名は弁丸(べんまる)。本名は信繁。
関ヶ原の戦いでは西軍に与(くみ)し、父昌幸と共に徳川秀忠軍の進軍を上田城で阻止。
しかし現地関ヶ原で西軍が敗北したため、紀州九度山にて約一五年を過ごす。豊臣秀頼からの誘いを受けて、大坂城に入る。
冬の陣では真田丸という出城を築いて、徳川方に苦戦を強いる。
夏の陣。狙うはただ一つ、家康の首。一直線に家康本陣に向かう――!
詳細
1.長いモラトリアム
幸村は、信濃上田城主
昌幸の次男。関ヶ原の戦いでは西軍に与(くみ)し、東山道を通り関ヶ原に向かう東軍
徳川秀忠の大軍を、父昌幸と共に上田城で引き付け、その進軍を阻止しました。
しかし現地関ヶ原で西軍が敗北したため、幸村は昌幸と共に紀州(和歌山県)九度山(くどやま)に蟄居させられました。
九度山蟄居時代には、苦労の余り歯が抜け、髭が白髪になったと切ない心境を語った書状が現存します。約一五年の月日が経った時、九度山の幸村に豊臣秀頼から誘いがかかります。昌幸はもうこの世にありませんでした。
2.真田丸の攻防
実は幸村のそれまでの実戦経験は意外に少なく、豊臣側からしてみると彼を召し抱えたとしても、その実力は未知数。幸村自身もそのように感じていたでしょう。
また豊臣は、兵力の上では明らかに徳川勢に劣っていました。一方の徳川家康は、大坂冬の陣に際し、真田の大坂入城を聞いた際に思わず「親の方か子の方か」と聞いたそうです。
しかしその問いの意に反して「子の」幸村は、大坂城南東に築いた出城「真田丸」(さなだまる)に籠り、不用意に押し寄せる徳川勢を散々に悩ませました。冬の陣における徳川方戦死者の八割は、真田丸の攻防によるものと言われています。
3.何度でも―家康本陣へ
翌年の夏の陣。速さと破壊力を兼ね備え、大変恐れられていた伊達政宗の騎馬鉄砲隊に大坂方の後藤又兵衛は胸部を撃たれて戦死。
幸村は兵を木陰や岩陰、草むらに伏せさせ、騎馬鉄砲隊が近づいたところの側面を突然槍で突かせました。騎馬鉄砲隊は苦戦を強いられ、撤退しました。
幸村の狙いはただ一つ「家康の首」。
大坂方のどの軍も家康の本陣に近づけませんでしたが、真田隊は一直線に家康本陣に向かい、死者が続出しても突進を続けて、ついに家康の旗本へ突っ込みました。
旗本は混乱し、二度まで突き崩され、命からがら逃げ出しました。三方ヶ原の敗戦後、傾いたことがない金扇の馬印も、ついに地に伏して砂塵にまみれました。家康本人は慌てて走り、その場を逃れました。三度目に突入したとき、幸村はついに討ち死にしました。
多勢に果敢に挑んだ幸村でしたが、普段は温和な人だったようです。
真田幸村 相関図
家族
父:真田昌幸/兄:
真田信之
義父(妻の父):大谷吉継
ライバル
大坂の陣の味方
参考文献
- 小和田哲男 監修『ビジュアル 戦国1000人』(世界文化社、2009年)
- 奈良本辰也 監修『戦国武将ものしり事典』(主婦と生活社、2000年)