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戦国武将解説

南光坊 天海 (なんこうぼう-てんかい)

プロフィール

天海
Tenkai Nankobo

高僧にして家康秀忠・家光の徳川3代に仕える静かなるドン。慈眼(じげん)大師。

都市プランナーで、廃墟に近かった江戸を天台密教や陰陽道に基づく都市として構築した。

家康死後の称号・「権現」の名付け親でもある。

享年108(生1536-没1643)。徳川家康より6歳年上。

詳細

1.幕府の陰の参謀

天海は慈眼大師(じげんだいし)とも呼ばれ、天台宗の高僧にして、徳川家康徳川家康徳川秀忠徳川秀忠徳川家光家光の徳川三代に仕えた徳川幕府の陰の参謀です。

天海は36歳の時、武田信玄武田信玄に甲斐国に招かれ、天台論議法要の講師を務めたこともありました。天海の死因は病死、享年108だったとも言われています。

2.都市プランナー・天海

さて、慶長八年(1603)に家康が幕府を開いた時、江戸はほとんど廃墟に近い状態でした。この廃墟の東国に新しい武士の国を作るべく、都市プランナーとして活躍したのが当時、家康の側近だった天海でした。

天海は、東西南北に青竜・白虎・玄武・朱雀の四つの守り神を配し、宗教的曼荼羅の結界を用意周到に張り巡らせ、天台密教や陰陽道に基づいて江戸を構築しました。

そして江戸に流れ込んでくる諸藩の取り潰しによって大量発生した浪人や、芸能漂泊民、様々な宗教者などの危険分子たちは、江戸の結界の外側にある特定の地域に囲い込み、厳しい監視下に置くようにしました。

また、朝廷の権力は、太陽の沈む西にある京都を死の国になぞらえることにより封じ込めようとしました。恐るべし、天海と幕府。

3.家康の称号は「権現」か「明神」か

さて、家康が死んだ後、家康を日光山に神として祭るのに、その称号を「権現」とすべきか「明神」とすべきかで大論争が起こりました。

天海は山王一実神道により「権現」を主張。天海と同じく家康の側近であった金地院崇伝(すうでん)は、唯一神道の正当性により「明神」にすべきだと主張しました。それに対して天海は明神号は豊臣秀吉秀吉と同じで不吉だと指摘。両者全く譲らず、激しい論争が繰り広げられました。

最後は二代将軍・秀忠の判断に委ねられ、家康の称号は「権現」となり、このどっちでもいいんじゃないかバトル、もとい、家康公の大事な称号論争は天海の勝利となって幕を閉じました。

4.川越・喜多院

さて、家光においては、家康と天海が年が近かった為、天海が家康と重なるようで、家光の天海に対する崇敬ぶりはすさまじいです。

例えば、江戸城にあった家光誕生の間と春日局化粧の間を、天海のお寺・喜多院(埼玉県川越市)に移築するほど。 これが幸いして、喜多院に行けば当時のままの江戸城の御殿を偲ぶことができます。

南光坊天海 相関図

主君

徳川家康徳川家康徳川秀忠秀忠徳川家光家光

同僚

金地院崇伝林羅山板倉勝重本多正信

元教え子

武田信玄武田信玄

  

関連トピック

参考文献

桜井 進『江戸のノイズ―監獄都市の光と闇 (NHKブックス)』(日本放送出版協会、2000年)

中村 晃『黒衣の宰相 天海 (現代を拓く歴史名作シリーズ) 』(叢文社、1988年)