プロフィール
天台宗高僧。慈眼(じげん)大師。川越喜多院住職。
二六歳の時にたまたま川中島合戦を観戦、武田信玄に招かれ、天台論議法要の講師を務めたことも。
家康の側近として、廃墟に近かった江戸を天台密教や陰陽道に基づく都市として構築。
また家康死後の称号をめぐって、同じく家康側近の金地院崇伝と大論争に――!
享年108(1536-1643)
詳細
1.川中島合戦を観戦
天海の出身地は、陸奥国会津とされてますが定かではなく、一四歳で比叡山に上り天台を学び、園城(三井)寺や奈良で経論、さらに足利学校で儒学を学んだといわれています。
永禄四年(1561)天海二六歳は、第四次川中島の戦いの前日、代々天台宗を信仰してきた武田信玄四一歳を海津城にたまたま訪れ、戦い当日は妻女山の山上から終日見物。戦いの済んだその夜、信玄弟信廉を見舞いました。
元亀二年(1571)三六歳の時、信玄五一歳に甲斐国に招かれ、天台論議法要の講師を務めたこともありました。
2.河越喜多院住職
天正一六年(1588)五三歳の時に河越(埼玉県川越市)の喜多院に移り、天海と号しました。家康の信任厚く、比叡山の南光坊の主となりましたが、慶長四年(1599)六四歳の時に再び喜多院住職となりました。天海が家康の知遇を得たことで、天台宗の本山として喜多院が勢力を増しました。
特に家光は家康死後、家康と天海が年が近かったため、天海が家康と重なるようで、家光の天海に対する崇敬ぶりはすさまじいです。例えば、江戸城にあった家光誕生の間と春日局化粧の間を喜多院に移築するほど。 これが幸いして喜多院に行けば当時のままの江戸城の御殿を偲ぶことができます。
喜多院:上段2016年、下段2005年撮影
左から喜多院入口にそびえ立つ天海像および山門。
左から東照宮(家康を祀る神社)、庭、幼かった家光の馬のおもちゃ。
地元且つ大学も川越にあったため、実のところ私は天海に親しみをもっています。喜多院近くには川越城もあります。
3.都市プランナー
慶長八年(1603)に家康が幕府を開いた時、江戸はほとんど廃墟に近い状態でした。この廃墟の東国に新しい武士の国を作るべく、都市プランナーとして活躍したのが当時、家康の側近だった天海でした。
天海は、東西南北に青竜・白虎・玄武・朱雀の四つの守り神を配し、宗教的曼荼羅の結界を用意周到に張り巡らせ、天台密教や陰陽道に基づいて江戸を構築しました。
そして江戸に流れ込んでくる諸藩の取り潰しによって大量発生した浪人や、芸能漂泊民、様々な宗教者などの危険分子たちは、江戸の結界の外側にある特定の地域に囲い込み、厳しい監視下に置くようにしました。
また朝廷の権力(後陽成天皇)は、太陽の沈む西にある京都を死の国になぞらえることにより封じ込めようとしました。
4.家康の称号を命名
家康死後、家康を日光山に神として祭るのに、その称号を「権現」とすべきか「明神」とすべきかで大論争が起こりました。
天海は山王一実神道により「権現」を主張。天海と同じく家康の側近であった金地院崇伝は、唯一神道の正当性により「明神」にすべきだと主張。それに対して天海は、明神号は秀吉と同じで不吉だと指摘。両者全く譲らず、激しい論争が繰り広げられました。
最後は二代将軍秀忠の判断に委ねられ、家康の称号は「権現」となりました。家康を祀る神社・東照宮は家康の称号(神号)東照大権現に由来します。
天海の死因は病死、享年一〇八だったとも言われています。
南光坊天海 相関図
徳川政権
仏教宗派
参考文献
- 桜井進『江戸のノイズ-監獄都市の光と闇』(日本放送出版協会、2000年)
- 中村晃『黒衣の宰相 天海』(叢文社、1988年)
- 小和田哲男 監修『ビジュアル 戦国1000人』(世界文化社、2009年)
- 奈良本辰也 監修『戦国武将ものしり事典』(主婦と生活社、2000年)「川中島の戦い」93頁