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戦国人物解説

武田勝頼(たけだかつより)長篠の戦いと甲州征伐

目次

序文プロフィール詳細:1.母の諏訪御料人 2.信玄死去

3.長篠の戦い 4.裏切りの家臣たち 5.甲州征伐

相関図参考文献関連記事

序文

「アヽ翼がほしい、羽がほしい。飛んでいきたい。知らせたい」_勝頼の危機を救いたい八重垣(やえがき)姫@本朝廿四孝(にじゅうしこう) 松平盟子『文楽にアクセス』(淡交社、2003年)

プロフィール

武田勝頼
Katsuyori Yamamoto

武田信玄四男。第二〇代武田当主。幼名は四郎。

母は信玄に滅ぼされた信濃諏訪社神官・頼重の娘。

信玄病死三ヶ月後に、徳川家康徳川家康が兵を従えて、武田方の三河長篠城を囲む。信玄以来の老将らは甲府へ帰るが良策としたが、勝頼はこれを退ける。

かくして織田・徳川連合本隊一万八〇〇〇と武田軍六〇〇〇が対陣。織田軍の鉄砲隊に武田の騎馬隊は次々に撃ち倒され、主たる諸将が戦死。

大敗北を喫した長篠の戦い後、武田当主の本当の試練がここから始まる――

享年37(1546-1582)。同い年は最上義光黒田官兵衛

詳細

1.母の諏訪御料人

甲信越_戦国時代地図
図1:甲信越_戦国時代地図

武田勝頼勝頼武田信玄武田信玄の四男。母の諏訪御料人は信濃諏訪社神官(大祝,おおほうり)、諏訪惣領家の諏訪頼重の娘でした。

諏訪頼重は信玄の妹・禰々(ねね)を夫人に迎えましたが、天文一一年(1542)以降、信玄は信濃への進攻を開始。諏訪氏を攻撃し、頼重は降伏して切腹させられ神代以来の諏訪氏は絶えました。

頼重の娘は絶世の美女だっため、信玄は諏訪御料人を側室に入れたのでした。これとほぼ同じタイミングで、信玄は農家の美少年高坂昌信に一目ぼれし、昌信もまた武田家に迎え入れられました。

2.信玄死去

永禄八年(1565)勝頼一七歳は諏訪氏の名跡を継ぎました。二年後、信玄嫡男の義信の謀反が発覚したため、信玄は高遠城にあった四男勝頼を嫡男とし、織田信長織田信長の養女を夫人に迎えて家の建て直しに努めました。

足利義昭足利義昭は将軍就任後、その支援者であった信長と次第に対立。信長の延暦寺焼き討ちなどは信玄の怒りもかっていました。

義昭は信玄に上洛を促し、同三年(1572)一二月に三方ヶ原で、信長の同盟軍である徳川家康徳川家康を破った信玄は、北条方の援軍を合わせて三万の大軍をもって西上。

しかし天正元(元亀四)年(1573)信玄が西上中に陣中で発病し信濃で死去。これにより勝頼は二八歳で家督を継ぎました。また父の西上作戦を継続、東美濃を攻略し、信玄さえもできなかった高天神(たかてんじん)城も落としました。

3.長篠の戦い

長篠の戦い対陣図
図2:長篠の戦い対陣図

信玄が病死した三ヶ月後、家康三四歳が兵を従えて、武田方の三河長篠城を囲みました。この城は簡素でしたが、交通の要衝でした。

同三年(1575)長篠城が家康の手に落ちて、勝頼はこれを奪還すべく長篠城の攻撃を開始。武田の来攻を知った家康は、信長四二歳に援軍を要請。信長は一万の援軍を従えて岐阜を出陣しました。

勝頼三〇歳は軍議を開き、信玄時代からの老将の馬場信房、内藤昌豊、山県昌景(やまがた-まさかげ)たちは兵を退いて甲府へ帰るが良策としましたが、無敗を誇る勝頼は退けました。

織田・徳川連合本隊一万八〇〇〇は設楽ヶ原(したらがはら)に、三〇〇〇挺の鉄砲隊を馬防柵の後ろに一〇〇〇挺ずつ三段に備えました。勝頼は長篠の囲みを解き、六〇〇〇の兵を率いて設楽ヶ原に対陣。

武田方の山県昌景が攻撃を開始。織田軍は武田の騎馬隊を十分に引き寄せ、木柵の中に待機していた足軽兵が鉄砲で迎撃。二番手武田信廉(のぶかど,信玄弟)が攻め寄せましたが過半数が撃ち倒され、三番隊の小幡一党の赤武者が馬で柵内を突入を試みるも、佐々成政佐々成政軍の足軽兵の銃弾に倒れました。

織田・徳川連合軍は、鉄砲と足軽だけで武田軍を迎撃。武田の主たる将、山県昌景、馬場信房、内藤昌豊、真田信綱・昌照兄弟(真田昌幸昌幸兄二人)、武田信実(のぶざね,信玄弟)らが戦死。

勝頼はじめ生き残って帰還した武田軍を、高坂昌信をもって迎え入れました。

4.裏切りの家臣たち

長篠の戦いで大敗北を喫してから、武田家は急速に衰えはじめました。

同一〇年(1582)木曽義昌が信長に、穴山信君(梅雪)が家康に内通。信玄の甥である穴山信君(のぶきみ)は家康に降る条件として、武田の家名存続やその救済をあげました。親族衆筆頭としての苦渋の決断でした。

信濃木曽領主の木曽義昌は、織田と隣接の事情あり、領国保全のためにこれまた苦渋の決断でした。木曽謀反の報せに勝頼は兵を率いて諏訪に進出。木曽義昌は信長に救援を求めました。

5.甲州征伐

これにより信長は同年二月、甲州討伐として一八万八〇〇〇という大軍を発しました。先鋒大将織田信忠織田信忠が尾張・美濃衆の兵を率いて信濃に進撃。勝頼は穴山信君に勧められ、昨年築城したばかりの新府城に戻りました。

仁科盛信の奮闘

裏切り者が続出した武田にあって、勝頼異母兄の仁科盛信は信濃高遠城を死守。信忠の降伏勧告を拒否し、織田軍の総攻撃が開始されると、盛信以下の城兵は奮戦しました。

然しながら衆寡敵せず、高遠城落城の報せを聞くと勝頼は、新府城だけではもちこたえられないと、この城に火を放ちました。

小山田信茂からの攻撃

勝頼一行二〇〇人足らずは、小山田信茂の勧めで彼を頼って逃走。笹子峠の麓に着いたとき、信茂の手勢が峠の上から鉄砲を撃ちかけました。

これにより勝頼一行四〇数名は、天目山へ向かう途中の田野村で、妻と嫡子信勝一六歳とともに自害。ここに武田家が滅びました。享年三七。

勝頼の妻は北条氏政北条氏政の妹で一九歳。勝頼は落ち延びよとすすめましたが、黒髪を切って覚悟のほどをのべ、自ら守り刀を胸に突き刺し、介錯を待ちました。

信玄存命中は上杉謙信上杉討伐に時間をかけ過ぎており、武田滅亡の全てを勝頼のせいにするのも酷と言えます。

武田勝頼 相関図

武田家

父:武田信玄武田信玄

家臣:山本勘助山本勘助高坂昌信真田昌幸真田昌幸

武田氏滅亡後の家臣たち→八王子千人同心

ライバル

織田信長織田信長織田信忠織田信忠佐久間信盛滝川一益佐々成政佐々成政

徳川家康徳川家康

  

参考文献

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武田勝頼肖像素材