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戦国人物解説

武田信玄(たけだ-しんげん)法の下の平等の元、常勝する戦国大名

目次

プロフィール詳細:1.父信虎を追放 2.信濃進攻

3.川中島の戦い 4.甲相駿三国同盟 5.三方ヶ原の戦い

恵林寺甲州法度之次第とは信玄の五分勝ち

相関図躑躅ヶ崎館参考文献関連記事

プロフィール

武田信玄
Shingen Takeda

第19代武田当主。幼名は太郎。三九歳で出家する前までは晴信と称す。

名が通り、好きな人は好きだが、万人受けは難しい戦国大名。

弟信繁に家督を譲りたがった父信虎を追放し、二一歳で家督を相続。信濃へ進攻するも村上義清に苦戦、信繁が戦死する。

上杉謙信との川中島の戦いは一二年にも及び、その間、甲相駿同盟国の今川義元が桶狭間で織田信長に敗れる。

嫡男義信は義元の娘と結婚。駿河侵攻を企てる父に反発した義信に自害を命じ、甲相駿同盟を破って相州北条氏康を攻め、駿河を占領。

今後は足利義昭本願寺顕如ら打倒信長派の期待を背負って、信長の同盟軍徳川家康を攻撃、上洛を目指す――!

享年53(生1521-没1573)。同い年は陶晴賢。義元より2つ年下。謙信より9つ、信長より13つ年上。

詳細

1.父信虎を追放

信玄屋敷・模型
躑躅ヶ崎館 2007年撮影

武田氏は清和源氏で源義光を祖とし、鎌倉時代に甲斐国(山梨県)の守護となりました。南北朝時代は足利氏に属しました。

武田信玄信玄の父信虎は、国内を統一して本拠を石和(いわさ)から府中(甲府)に移して躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を築造。以後、武田氏の本拠となりました。

信玄は天文五年(1536)一六歳の時に元服、将軍足利吉晴の一字を賜り晴信と称しました。初陣もこの年。永禄二年(1559)二月、三九歳で出家した際に信玄と号しました。

家督を長男の自分でなく、弟信繁に譲りたがった父信虎を追放し、天文一〇年(1541)二一歳で家督を相続しました。

2.信濃進攻

甲信越地図_天文・永禄年間
図1:甲信越地図_天文・永禄年間

同一一年(1542)以降、信玄は信濃への進攻を開始。同一七年(1548)二月、武田軍一万余は小県(ちいさがた)侵入。信濃葛尾(かつらお)城主村上義清が七〇〇〇の兵を率いて上田原にて迎撃。武田方の板垣信方、甘利虎泰、初鹿野(はじかの)伝右衛門らが戦死、信玄二八歳も負傷しました。

同年七月に信濃国守護で深志(松本)城主の小笠原長時は、筑摩郡塩尻峠で戦いましたが信玄に敗退。

同一九年(1550)九月、武田軍五〇〇〇は葛尾城の支城・砥石(といし)城(上田市)を攻撃。義清が六〇〇〇の手勢を率いて救援に駆けつけ激突。武田軍は兵一二〇〇ほど失い大敗しました。

3.川中島の戦い

同二二年(1553)武田軍は葛尾城を攻略。窮地に追い込まれた義清は小笠原長時と同様に上杉謙信 上杉謙信を頼りました。これら武将の希望で謙信は出兵。かくして同年四月~永禄七年(1564)一〇月までの一二年間、五度に渡って川中島で上杉軍と対陣しました。

特に第四次戦いにおいては、弟信繁や山本勘助山本勘助らが戦死しました。

4.甲相駿三国同盟

武田氏勢力図_元亀年間
図2:武田氏勢力図_元亀年間

越後の・謙信と甲斐の・信玄が争っている間に、織田信長織田信長は永禄三年(1560)今川義元今川義元を桶狭間に破りました。

義元戦死により天文二三年(1554)に結ばれた武田・北条・今川の甲相駿三国同盟が崩れていきます。

三国同盟によって嫡男義信(よしのぶ)は一五歳で義元の娘と結婚。義信は駿河侵攻を企てている父に反発。信玄は四男武田勝頼勝頼を嫡男とし、永禄九年(1566)義信に自害を命じ、義信夫人は実家の今川氏に返しました。

怒った駿河と相模は経済制裁として、山国にいる信玄への塩の供給をストップ。このとき(作り話らしいですが)上杉謙信が塩を送った、のでした。

かくして同一一年(1568)信玄は駿河に侵攻。今川氏真を駿府から遠江掛川に奔らせました。氏真は同盟関係の相模北条氏康北条氏康に救援を求め、氏康も駿河に出兵。同一二年(1569)駿河薩埵山(さつたやま)で武田軍は北条軍に敗戦しました。

同年一二月信玄は作戦を変更し、西上野から関東に侵攻して小田原城を一時包囲後、帰路、相州三増(みます)峠で北条軍を破り、再度駿河に進んで駿府を占領しました。

5.三方ヶ原の戦い

三方ヶ原の戦い対陣図
図3:三方ヶ原の戦い対陣図

中央では永禄一一年(1568)一〇月信長が足利義昭足利義昭を奉じて上洛を果たしました。

義昭は支援者・信長と次第に関係が悪化。また天台宗総本山延暦寺焼き討ちなど信長の振る舞いは、代々天台宗を信仰してきた信玄の怒りもかっていました。

義昭は「信長の傲慢は許せない」と伝えてきた信玄を味方につけて、信長の同盟軍である徳川家康徳川家康を攻撃させました。元亀二年(1571)北条と武田は和睦。義昭は信玄に上洛を促し、同三年(1572)一二月に三方ヶ原で家康を破った信玄は、北条方の援軍を合わせて三万の大軍をもって西上。

しかし天正元年(1573)四月に信州駒場で病死しました。享年五三

恵林寺

2007年撮影
恵林寺_山門 恵林寺_信玄の墓 恵林寺_庭
山門 二つで一つの信玄の墓

信玄は仏教信仰者で、信長と対照的にあらゆうる寺社に対して手厚い保護を加え、神仏を尊崇していました。恵林寺(えりんじ)は山梨県甲州市にある臨済宗の寺で鎌倉末期に創建され、信玄が再興。甲州征伐によって織田信忠織田信忠に焼かれましたが、 家康が再建しました。

甲州法度之次第とは

戦国時代の分国法である信玄が制定した甲州法度之次第(こうしゅうはっとの-しだい)は、中立な裁きを重んじた法令。

全五七ヵ条、行政、租税、刑法、私法、訴訟といった内容で構成され、最大の特徴は甲州法度之次第を犯す者は例え自分(信玄)であっても、責任を負わなければいけない点です。

日本国憲法第一四条法の下の平等と似ておりますが、大日本帝国憲法(明治憲法)には法の下の平等の規定は特にありません。そのようなわけで時代の先端をいっていた法令だったと言えます。

信玄の五分勝ち

「信玄の五分勝ち」というのは、「引き分けもでもよし」という考え方です。

信玄のイメージだと、何が何でも勝ってやる!と思いがちですが、勝てる相手に戦を挑むのも信玄が常勝できた秘訣。強い相手、謙信や氏康などと戦わなければならない時は「引き分けでもいいや~」と案外リラックスして望んだのかもしれません。

武田信玄 相関図

武田家

息子:武田勝頼武田勝頼

弟:武田信繁・信廉

家臣:山本勘助山本勘助高坂昌信

武田氏滅亡後の家臣たち→八王子千人同心

同盟関係

甲相駿三国同盟:北条氏康北条氏康今川義元今川義元

反信長包囲網:足利義昭足利義昭本願寺顕如浅井長政浅井長政 朝倉義景朝倉義景

ライバル

村上義清上杉謙信上杉謙信織田信長織田信長徳川家康徳川家康

その他

甲斐に招いた僧侶:南光坊天海

会ってみたかった武将:立花道雪立花道雪

  

躑躅ヶ崎館

写真は2007年、NHK大河ドラマ・風林火山のテーマパーク(山梨県甲府市)にあった模型。

特徴

躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)はシンプルでオープンな作りで、石垣や塀がない。父信虎~勝頼の三代が六三年にわたり住んだ。

高坂昌信原本著『甲陽軍鑑』曰く「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、あだは敵なり」どんなに立派な城を築いても、領国の人民、家臣こそが城であり、石垣であり、堀である、の意。『名将言行録』要約「信玄は生涯甲斐の国に城郭を築いていない。大将は法度や軍法を定めたりすることのほうが城をつくるよりも大切なのである」

然しながら躑躅ヶ崎館は住居と執務を兼ねる主殿、本主殿のほか、信玄が日常にいる常の間、能舞台、鞠懸(まりかがり/蹴鞠のコート)、回遊式庭園、弓馬などが備わる。

トイレ

信玄専用の雪隠(便所)は畳を敷き詰めた京間六畳敷で、水洗式で風呂の水を下水として流すシステム。信玄は山に草木(臭き)が絶えぬという意味で甲州山と呼んだこの部屋で、香炉を置いて伽羅(きゃら)をたきこめ、諸作戦を練り、訴訟関係の書類に目を通した。

参考文献

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武田信玄

素材:肖像その1肖像その2花菱軍旗 記事:風林火山意味

イラスト:リアル型破り兜三国同盟DAPPE関東三国志バレンタイン