プロフィール
信濃(長野県)の戦国大名。真田幸村の父。幼名は源五郎。安房守。
武田信玄の臣下であったが、武田氏滅亡後は六か月半の間に北条、織田、上杉、再び北条、そして徳川家康と主君を変える。
家康から真田の地であった上野(群馬県)沼田を北条氏政に引き渡すように言われるがこれを拒絶。怒った家康は、大軍をもって上田城を攻撃。
これを城外にて迎撃。秀吉によって沼田は三分の二を北条領、三分の一は真田領となったが、北条氏の臣下が沼田領へ侵攻。小田原合戦の契機となる――!
詳細
1.武田氏滅亡
真田氏は、海野棟綱(うんの-むねつな)の子・幸隆(ゆきたか)が、信濃(長野県)海野から真田郷に移住し、姓を改めたことに始まります。
海野一族が武田信虎(信玄の父)に追われたあと、幸隆は信玄に帰属。天文一六年(1547)昌幸は幸隆の三男として生まれました。同二〇年(1551)父幸隆は、信玄が二度敗北している村上義清の砥石城(上田市)を謀略をもって落としました。
同二二年(1553)昌幸七歳は信玄に近習。天正二年(1574)父幸隆が六二歳で病死、翌年長篠の戦いおいて兄二人信綱・昌輝が戦死ししため、昌幸二九歳が家督を継ぎました。
昌幸は、長篠の戦いで織田信長・信忠父子に大敗した武田当主勝頼一行を迎え入れようとしました。しかし勝頼側近のなかに「あまり真田を信用なされては…」という者があり、彼らは武田家臣であった小山田信茂を頼りました。
小山田信茂に裏切られた勝頼は自刃後、昌幸は以前より気脈があった関東の北条氏から被官を承諾されました。一方、信長は勝頼の旧領・上野国(群馬県)を滝川一益に与えました。かくして昌幸は織田に帰属し、前橋(厩橋)城主・滝川一益の与力となりました。
2.上野沼田領問題
天正一〇年(1582)六月二日に信長が本能寺で討たれると、甲信に越後の上杉景勝が入ってきて、昌幸は上杉に臣従を申し入れました。一方、関東の雄北条氏政・氏直父子は、一益を追い出して上野から信濃へ進攻。この状勢を見て昌幸は北条方に与(くみ)しました。
また徳川家康は甲斐侵攻を企み、同年八月、家康軍と北条軍が甲斐若神子(わかみこ)で対陣。この対陣は長引き、この間、昌幸は秀吉のさそいにのって、北条方から家康方になりました。
氏直軍が昌幸を攻める状況になり、また家康は武田の旧臣を配下に置き、北条氏が不利になってゆく中で和睦が成立。和睦の条件には氏直が家康の次女・督姫(とくひめ)を妻とするほか、上野沼田を北条方に引き渡すというものでした。
3.第一次 上田合戦
沼田は真田の古くからの所領であったため、昌幸は家康の返還命令を拒否。この問題はしばらくそのままにされていましたが、天正一三年(1585)の春に蒸し返されて、昌幸は先年の無礼を詫びて、越後の上杉氏に救援を依頼。これに景勝は六五〇〇の援軍を送りました。
怒った家康は大久保忠世ら率いる七〇〇〇余の大軍をもって、信濃上田城を攻めさせました。昌幸三九歳はこの四分の一程度の兵数で城外にて撃退。真田の名が天下に轟きました。
上田合戦後、昌幸は次男幸村を人質として景勝に送りましたが、景勝が上洛したすきに幸村を奪い返して秀吉に臣従を申し入れました。これに対し、景勝は秀吉を前にに引き下がるしかありませんでした。
4.小田原合戦
上野沼田は秀吉によって三分の二を北条領、三分の一は真田領として安堵されました。天正一七年春の頃でした。沼田北条領を預かっていた氏邦は、その支配を家臣の猪俣邦憲(いのまた-くにのり)に命じました。しかし猪俣が真田領へ侵攻。
これを契機に、九州を制圧し残るは関東制圧であった秀吉は家康に先鋒を命じ、同一八年三月一日に秀吉の軍勢が小田原に向けて京を出発。上田城の真田昌幸も合流して三万五〇〇〇余りの秀吉の軍勢が北条領に侵入。
小田原城には氏政・氏直ほか、氏照ら一門、宿老筆頭・松田憲秀ら五万六〇〇〇余が籠城。次々に支城が陥落し七月氏政・氏照兄弟は切腹を命じられ、ここに小田原北条氏百年の歴史の幕が閉じられました。
5.第二次 上田合戦
慶長五年(1600)上田合戦の屈辱が忘れられない徳川秀忠の軍三万八〇〇〇が、関ヶ原に向かう途中に上田も通るので、ついでに倒してやれと攻めて来ました。
長男信之は家康に出仕したため、昌幸五四歳は次男幸村三四歳とともに居城の上田城で真田軍二五〇〇でこれを撃退しました。
6.紀州九度山へ
しかし現地・関ヶ原の西軍が敗れたため、西軍に属した昌幸・幸村父子は家康の処罰を受け、紀州(和歌山県)九度山(くどやま)に蟄居させられました。最後まで家康の許しを得られなかった昌幸は、九度山で死を迎えます。
そして幸村が大坂に入城。徳川との最期の戦いに挑みます。幸村またも少ない兵で徳川を何度も窮地に追いやりました。後世の昌幸の評判はこうした幸村の影響が大きいようです。
その実像は物欲、領土欲強く、また臣下や領民からは慕われていましたが、他国からは油断ならない人物として警戒されていました。
管理人が戦国時代に興味をもち、初めて見に行った城は地元川越城ではなく上田城。実戦に堪えた抜き、今に遺る城を偲ぶことができてました。
真田昌幸相関図
真田氏
- 祖父:海野棟綱
- 父:真田幸隆、母:河原隆正の妹?
- 長兄:信綱、次兄:昌照
- 弟(幸隆四男):信尹(のぶただ)。加津野信昌。勝頼死後、本姓に戻り、家康に仕える。享年八六
- 妻:山之手殿(やまのてどの:宇多頼忠の娘)
- 長男:信之、次男:幸村
信濃松代藩
ライバル
元主君
参考文献
- 中村整史朗「真田昌幸」『天下取り採点 戦国武将205人』(新人物往来社、1998年)
- 『歴史群像シリーズ14 真説 戦国北条五代』(学習研究社、1989年)
- 小和田哲男 監修『ビジュアル 戦国1000人』(世界文化社、2009年)
- 小和田哲男「真田氏」左同(監修)左同・菅原正子・仁藤敦史(編集委員)『日本史諸家系図人名辞典』(講談社、2003年)330-332頁