プロフィール
東海地方の戦国大名。幼名は芳菊丸(ほうきくまる)。母は女大名と呼ばれる寿桂尼(じゅけいに)。
幼少時に出家するも、家督を継いだ氏輝が家督を継ぐも早世。家督をめぐって、義元は、異母兄・玄広恵探と争う。
花倉の乱というお家騒動に発展するも、禅僧の太原雪斎の作戦が功を奏し、義元が家督を継ぐ。恵探側であった福島一族の綱成は小田原の北条氏へ逃れる。
詳細
1.花倉の乱
関東の覇者北条氏康の右腕・北条綱成は、元々は今川氏の家臣。それがどうして小田原で活躍しているのかといえば花倉の乱という、今川家のお家騒動が原因でした。
義元は、分国法『今川仮名目録』を制定した氏親(うじちか)の五男。母は中御門宣胤(のぶたね)の娘(寿桂尼)。同母兄の氏輝は一四歳で家督を相続。一方の義元は幼少時に出家し、駿河の善徳寺に入って承芳(しょうほう)を名乗っていました。
氏親が二四歳で病死すると、家督をめぐって義元と異母兄で花倉(藤枝市)の遍照光寺(へんしょうこうじ)住職の玄広恵探(げんこう-えたん)が衝突。
恵探は福島一族と乱を起こして、今川家が初期に本拠としていた花倉城に陣を取りました。義元一八歳は、禅僧の太原雪斎(たいげん-せっさい)の作戦をもって、天文五年(1536)六月一二日、軍勢を三つに分けて、恵探方が拠る方(かた)の上(かみ)城、葉梨城、花倉城を襲わせました。
恵探は花倉城から逃れて自害。恵探側だった福島一族――綱成二二歳は今川家を追われたのでした。
2.三国同盟
義元は検地、法度の制定などに取り組み、内政に尽力。同二三年(1554)義元三六歳は、雪斎の外交交渉によって甲斐の武田信玄と氏康とで三国同盟を結びました。同盟によって背後の憂いは解消されましたが、弘治元年(1555)義元の軍師・雪斎六〇歳が病死しました。
3.桶狭間の戦い
永禄三年(1560)五月一二日、義元四二歳は上洛のためか、二万五〇〇〇の兵を率いて駿府を出発。この中には松平元康一九歳――のちの家康もいました。三〇〇〇の兵は、和歌の鬼才且つ蹴鞠の名手である子の氏真に残しました。
義元の大軍で攻め上がって来るという第一報を受けた織田信長は、三〇〇〇の兵ということもあって作戦会議らしいものもなく無策でした。一九日、桶狭間(名古屋市緑区有松町)の東北部の田楽狭間(でんらくはざま)という平地で休憩中の義元を信長が奇襲。
不意を突かれた義元軍。義元に服部小平太が一番槍をつけました。義元は小平太の膝を切りつけ、毛利新介に組み敷かれるも、新介の人差し指を食いちぎりました。しかしとうとう首級を上げられました。
これにより今川家の人質だった家康は一二年ぶりに岡崎城に帰り、のちに信長は家康と同盟を結びました。一方で信玄が裏切り駿河侵攻を企て、怒る今川と北条――その影響は計り知れないのでした。
今川義元 相関図
今川氏
- 祖父:義忠、祖母:北川殿(北条早雲の妹)
- 父:氏親、母:寿桂尼
- 同母兄:氏輝、同異兄:玄広恵探
甲相越三国同盟(政略結婚)
その他
ライバル
参考文献
- 江崎惇「今川義元」、祖田浩一「太原雪斎」『天下取り採点 戦国武将205人』(新人物往来社、1998年)88-89、102頁
- 奈良本辰也 監修『戦国武将ものしり事典』(主婦と生活社、2000年)「桶狭間の戦い」82-85頁
- 小和田哲男 監修『ビジュアル 戦国1000人』(世界文化社、2009年)「今川義元」162頁、「玄広恵探」・「今川氏親」163頁
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- 素材:肖像・赤鳥・軍旗
- イラスト:芳菊丸・義元with寿桂尼 太原雪斎