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戦国人物解説

林羅山(はやし-らざん)努力家の御用学者、横顔と思想

目次

序文プロフィール

詳細:1.惺窩との出逢い 2.市民講座 3.幕府に仕官

横顔羅山の思想相関図参考文献関連記事

序文

もし、今日、への接近に多くの障壁があるとすれば、それはもちろん、学校大学学問領域が≪領土≫のように構造化されているからである。ピエール レヴィ『ポストメディア人類学に向けて-集合的知性

プロフィール

林羅山
Razan Hayashi

江戸幕府の御用儒学者。林家(りんけ)の始祖。

名は信勝、通称は又三郎、道春。

一介の浪人の子だったが、学問が得意で、近世儒学の先駆藤原惺窩に入門。

それまで朝廷の博士家と禅林の内部だけに学問が独占されていたが、市民のための古典公開講座を公家の批判を受けながらも開講。

惺窩の紹介で家康に接近し、幕府に仕官。幕府官学の開祖となり、侍講を務め、学問儀礼に従事。ところで羅山の思想とはいかに――?!

享年75(1583-1657)。小早川秀秋より一つ、徳川秀忠毛利秀元より四つ年下。

詳細

1.惺窩との出逢い

林羅山の祖父・正勝は加賀の浪人で紀州で没し、そののち一家は京都に移りました。天正一一年(1583)羅山は、京都四条新町に信時の長男として生まれました。

羅山は一三才で京都五山の一つである建仁寺で教育を受けましたが、僧にはならずに一五歳で寺を出て帰宅。そのあとも読書に励み、慶長五年(1600)一八歳の時に関ヶ原の戦いがあり、徳川家康家康の覇権が確立しました。

羅山は、二二歳の同九年(1604)三月に藤原惺窩藤原惺窩に初めて会おうとして、友人で惺窩の門人でもあった吉田玄之(角倉了以の子)を介して手紙を送りました。

当時惺窩は、儒者として京中に聞こえていました。五山の俊才、名刹相国寺の首座が還俗して儒者となり或いは妻帯までしている――惺窩先生にこの年の夏に初めて会いました。その後、羅山は惺窩にしばしば面謁し、また頻繁に往復して教えをうけました。

羅山は既にそのころまでに四百四〇余部の書を読んでいましたが、惺窩の学問的影響は極めて大きかったのでした。また弟の東周(とうしゅう)が初めて惺窩に会った際は「先生、曰く、令弟もまた学に志すか。奇(き)なりと謂ふべし」と。(一 惺窩先生行状_羅山先生文集)」

羅山とは儒学者としての号で、中国広東省の羅浮山で宋代の学者が「春秋」を研学した故事に基づき、惺窩が命名しました。

2.市民講座

一方で、一七、八歳の頃から朱子学に関心を深めた羅山は、二二、三歳の頃には朱子の注釈による「論語」の公開の講義を京都の市中で行いました。

これはそれまで、秘伝として貴族や僧侶の間で伝授されてきた古典に関する知識を一般に広めようとする、啓蒙的文化活動。公家の清原秀賢は、これを禁止するよう家康に訴えましたが、家康は笑って取り合いませんでした。

3.幕府に仕官

羅山二三歳の時、惺窩の推薦により家康に接近し、幕府に仕官。惺窩が近世儒学の先駆をつとめながら生涯市井の学者としてとどまったのに対し、羅山は良くもわるくも民間の学問を幕府の官学に転化させ、幕府官学の開祖となりました。

家康死後は徳川秀忠秀忠徳川家光家光・家光・家綱まで四代の歴任、侍講を勤めるとともに、古書の調査と収集、武家諸法度十九条を選定、朝鮮通信使の応接や外交文書の起草、寺社関係の裁判事務など学問儀礼に関係ある公務に従事。

また正保元年には改元の奏進(天子に申し上げること)が命ぜられ、以後、林家が改元のことを当たる先例を開きました。羅山は幕命をうけて寛永二〇年(1635)には『寛永諸家系図伝』を完成、正保元年(1644)には『本朝通鑑』の編集も始めました。

明暦三年(1657)江戸に大火が起こって、羅山は幕府から賜った銅瓦の書庫を蔵書とともに焼失。落胆した羅山は、火災の翌日に発病し、三日後に病死しました。享年七五。

羅山の著述は百十七種の多きに達し、経・史・子・集関係は勿論、神道・有識・国文学方面から国史・系譜の類にまで及びました。

横顔

林家の家風

荻生徂徠政談』巻之四[文献3]より、林家について記載アリ。以下原文訳。

「林内記(信篤:林家三代目)が、父春斎(春勝:林家二代目)に、人見友元(宜郷:幕府の儒者)の異見を言った事があった。「林家の学者は経学(儒学)疎く、何れも講釈下手だ。注意するべし。」

と言ったなら、春斎以ての外に立腹し、「某ガ家は、道春(羅山)以来、御用の筋を第一とし、弟子共にも弘く学問をさせる事にて、喜右衛門(山崎闇斎)などの様に講釈を専らにせぬ事、家風である。其方異見の如くせば、家の学問はすぐに廃れるだろう」と言ったのだ。」

羅山の訓点

白居易の詩「匹如身後何事、応向人間無所求」は、高島俊男[文献4]先生曰く「まあどうせ死んだらゼロなんだから、世の中そうあくせくすることはないんだよね」くらいの意。高島先生が「匹如」を「まあどうせ」と訳されたのがポイント。しかし『広辞苑』では"匹如身(するすみ):資産も絆もなく、無一物なこと。"

果たして羅山の授業を弟子がノートしたものも「匹如(スルツヒ)ノ身後(ノチ)何(ナニ)事カ有ル、応向人間(アシフミタテヌヨノナカ)二求ムル所ロ無シ」

高島先生曰く「昔の日本人はけっこう中国語がわかったのだが…なんでもない話ことばがかえってわからない。…「匹如身」の「するすみ」はひどいね。」「羅山がこの時にこのよみを創作したのではない…昔からいわゆる「秘伝」として」伝わっているので「授業でもそう教えたのだ。」

ちなみに徂徠においても白居易の同詩について、羅山と同じ誤読をされています。

羅山の思想

幕府の学者として成功を収めた羅山。しかし同じ江戸初期の儒教者の中江藤樹(とうじゅ)や、その弟子の熊沢蕃山(ばんざん)と比べて思想的に深くもなく、江戸の思想界に影響を与えたというわけでもありません。

羅山は、儒教以外の思想に寛容だった師匠の惺窩とは違い、若い時から露骨に仏教排撃の議論を振り回していました。羅山の狙いは儒教の精神的指導の確立にあったので、排撃されるのは仏教のみだけでなく老荘の学もキリシタンの学もともに打倒されなければなりませんでした。

しかし神道だけは例外で、儒教を神道と結びつけて同一性を主張してしまうという羅山の態度は、和辻哲郎[文献5]が指摘するように、日本における儒教と神道との関係を伝統的に決定したといってよいでしょう。

また羅山は茶道玩物喪志といわんばかりに罵倒し、君子より見れば一握の小壺に過ぎぬ「肩衝(かたつき)を用いていかがせんや(『羅山文集』五六「肩衝」)」と言いました。然しながら羅山のような当時の儒学者は「史官」や「芸者」のようであり、学問が「産業」になったと、藤樹や蕃山は嘆きました。

しかし「中世までには、朝廷の博士家と禅林の内部だけに学問が独占されていたのが、今や解放されて望み次第学問する機会が開かれ、学問を「産業」とすることができる世の中になったことは、日本文化の大躍進でなくて何であろう。」と伊東多三郎[文献6]は羅山を評価しています。

五八歳の時でも一年内に七百冊を閲読した学問に対する羅山の姿勢を鑑みれば、ただの御用学者と単純に切り捨てることもまた難しいでしょう。

林羅山 相関図

林家(りんけ)

  • 祖父:正勝
  • 父:信時
  • 弟:東州(儒者。名は信澄、通称は弥一郎)
  • 三男:春勝、四男:守勝(読耕斎:どっこうさい)

嫡流

  1. 信勝(羅山):林家初代。
  2. 春勝(はるかつ):羅山三男。法名は春斎。
  3. 信篤(のぶあつ):春勝次男。春勝までの僧形から蓄髪、大学頭に任じられ以降、同官名を世襲。
  1. 衡(たいら):述斎(じゅっさい)。幕命により血統絶えた林家を継いだ林家中興の祖。孫に岩瀬忠震
  2. 皝(ひかる):檉宇(ていう)。述斎三男。水野忠邦の片腕として天保の改革を推進した鳥居耀蔵(ようぞう)の兄。以降、一二代昇(学斎)のとき明治維新を迎える。

交遊

徳川家

参考文献

  1. 石田一良「林羅山の思想」『藤原惺窩 林羅山(日本思想体系28)』(岩波書店、1975年)471-489頁
  2. 尾藤正英「林羅山」『国史大辞典11』(吉川弘文館、1990年)688-689頁
  3. 辻達也 校注「政談」『日本思想大系36 荻生徂徠』(岩波書店、1973年)442-443頁
  4. 高島俊男「スルスミって何」『漢字と日本』(講談社、2016年)90頁_村上雅孝「随筆と漢字―荻生徂徠の『南留別志』をめぐる二、三の考察」『漢字講座⓻近世の漢字ことば』(明治書院)
  5. 和辻哲郎『日本倫理思想史 三』(岩波書店、2011年)
  6. 伊東多三郎「羅山と物読み坊主」参考文献1.同書から日本思想体系月報49
  7. 菅原正子「林家」小和田哲男(監修)同左二人・仁藤敦史(編集委員)『日本史諸家系図人名辞典』(講談社、2003年)703-704頁

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