書籍情報
懲毖録(東洋文庫 357)
紹介文
懲毖録(징비록)は柳成龍が、後世の戒めを意図として壬辰・丁酉倭乱を記しました。書名は『詩経』周頌・小毖(しょうひ)「予(われ)懲(こ)りて、後の患(わざわい)いを毖(つつし)む」から取りました。
文禄の役(壬辰倭乱)が始まる前に、来日した通信使の金誠一が見た
秀吉。朝鮮を心配して自ら釜山まで行った
宗義智、戦争が始まってからは平壌城に籠る
小西行長や咸鏡道に侵攻する
加藤清正の動向。或いは提督・李如松と交わした平壌の戦いなどの裏話、
李舜臣の活躍など、宰相・柳成龍でなければ知らないことを余すところなく記しています。
翻訳された朴鐘鳴氏の日本語訳が読みやすいのはもちろん、注釈が非常に細かく丁寧。よって一般にはマニアックな内容にも関わらず、文禄・慶長の役を全く知らない人でも読んでいて躓くことはないでしょう。
当時の朝鮮朝廷内の党争は熾烈を極めた――にも関わらず氏があとがきで指摘されているように、これについてほとんど触れられていません。
戦争前、実録(朝鮮公式記録)などには東人派の成龍が中心となって、秀吉の侵略の兆しを明へ通報することを退けたとあります。しかし『懲毖録』では「余(成龍)謂(いわ)く、当(まさ)に即ち具由(経緯を書立てること)して天朝(明)に奏聞すべし」と。
食い違いあれど自分の率直な意見や気持ちが記されているのも、また事実。痔病に悩まされいたという、どこか微笑ましいエピソードまで挿し込まれているので、吸い込まれるように読破してしまうと思います。
書名の出典
『詩経』周頌より「小毖」
- 予其懲 而毖後患
- 莫予荓蜂 自求辛螫
- 肇允彼桃蟲 拚飛維鳥
- 未堪家多難 予又集于蓼
- 予(われ)其れ懲(こ)りたり、而(しかう)して後患(こうかん)を毖(つつし)む
- 予を荓蜂(へいほう)する莫(なか)れ、自(みずから)ら辛螫(しんせき)を求(もと)むるなり
- 肇(はじめ)は允(まこと)に彼(か)の桃蟲(とうちう)、拚(はん)として飛ぶは維(こ)れ鳥(とり)
- 未(いま)だ家(いへ)の多難に堪へず、予(われ)又(また)蓼(れう)に集(ゐ)る
通釈
予(成王)は始めの事に懲(こ)りて、後の患(わざわい)いを慎んでいる。汝ら群臣は、幼い我を引き回して(荓蜂)人を毒する様なことをしてはならない。自ら誅罰(辛螫)を受けることになる。
始めはまことに彼(か)の小鳥のミソサザイ(桃虫)、翻(ひるがえ)り飛べば大きな鳥になっている。予はなお幼くして周王家を経営するのに任に堪えない。予はまた苦(にが)い蓼(たで)の中に居るが如く、辛苦の世の中に居るので、汝ら群臣の助けを求めねばならない。
MEMO
中国最古の詩集『詩経』(しきょう)。このうち周頌(しゅうしょう)は、周王室の先祖の廟における祭りの歌で皆一章ずつ。上記「小毖」(しょうひ)も短いものの、難解のため解説が長くなりました。周王朝の初代が武王、二代が成王。小毖は、武王の弟・周公が成王の代わりに代作して用いたなどといいます。
参考文献
- 北島万次『豊臣秀吉 朝鮮侵略関係史料集成』(平凡社、2017年)第1巻122頁「懲毖録」
- 高田眞治『詩經 下 新装版 漢詩選2』(集英社、1996年)595-597頁「小毖」