プロフィール
織田家を乗っ取ろうとする秀吉を、達筆で対抗、すなわち檄文を書いて非難。秀吉から怒りを買い、康政の首に一〇万石の賞金がかかる。
詳細
1.家康の小姓
足利氏の支流の榊原氏は、清長のとき伊勢(三重県)一志(いちし)郡榊原村(久居(ひさい)市)から三河(愛知県)に移って松平氏に仕えました。
その孫の康政は、永禄三年(1560)桶狭間の戦い直後の一三歳のとき、岡崎城に帰還した徳川家康の小姓に取り立てられました。三河一向一揆攻めの功により康政の名を与えられ、以後各地の戦いで活躍して徳川四天王の一人と称されました。
2.小牧・長久手の戦い
織田信長死後、天下を狙う羽柴秀吉が動き出します。これを阻止すべく天正一二年(1584)信長次男の信雄・家康連合軍が秀吉と小牧・長久手で戦うことになりました。
そのとき康政が「信長の家臣であった秀吉が、その恩も忘れて信孝様(信長三男)を滅ぼし、今度は信雄様を討って主家を乗っ取ろうとしている。主君家康公、今、大意の為に秀吉を討ち滅ぼしましょう。」といった檄文(げきぶん)を書きました。しかも達筆でした。
これに怒った秀吉は、康政の首に一〇万石の賞金をかけたので、逆に康政の株が益々上がる結果に。一方、長久手にあって先鋒隊の康政は、秀吉軍最後尾の秀次軍を攻撃。ふいをつかれた秀次軍は、敵の二倍の兵力を持ちながらあっけなく敗走。この戦いで秀吉軍の池田恒興・森長可は戦死しました。
同一八年(1590)家康が関東に移封されると、康政は上野(こうずけ:群馬県)館林一〇万石に封ぜられました。
3.関ヶ原の戦い
関ヶ原の戦いの際に康政は徳川秀忠に属して、家康と別ルート中山道を進軍。途中に真田昌幸・幸村親子の上田城がありました。
徳川は以前、真田氏との戦いに敗北していたため、秀忠は昔の屈辱を果たそうと思いました。一緒についてきた家康側近の本多正信は断固反対しましたが、康政は秀忠に賛同。
かくして戦いの火蓋は切られましたが、徳川勢は少数の真田勢に敗北。現地・関ヶ原戦には間に合いませんでした。
4.若死の子たち
戦後、家康は水戸二五万石を与えようとしましたが、康政はこれを固辞。慶長五年(1600)六年間老中に就きましたが「老臣が権を争うは亡国のもと」といって、政治向きのことは本多正信らに任せたと言います。
康政が五九歳で死去。三男康勝が跡を継ぎ、館林藩主二代となりました。長男忠政は外祖父・大須賀氏を継いでいましたが、康政死後翌年に二七歳で死去。康勝は大坂の陣で戦功を立て、同二〇年(1615)二六歳で死去。康勝に嫡嗣なく、忠政の子・忠次が家康の命で館林の榊原氏を継ぐことになりました。
忠次は陸奥白河(福島県)藩を経て、播磨(兵庫県)姫路藩主一次初代一五万石。子孫は越後(新潟県)村上、再び姫路などを経て、寛保元年(1741)越後髙田(一五万石)にうつり、幕末まで続きました。
榊原康政 相関図
榊原氏
播磨姫路藩(譜代)
- 忠次:忠政長男、康勝養子。妻は黒田長政の娘。
- 政房:忠次の子。
徳川政権
諸国のライバル
参考文献
- 小和田哲男「榊原氏」左同(監修)左同・菅原正子・仁藤敦史(編集委員)『日本史諸家系図人名辞典』(講談社、2003年)318-319頁
- 小和田哲男 監修『ビジュアル 戦国1000人』(世界文化社、2009年)「榊原康政」302頁
- 奈良本辰也 監修『戦国武将ものしり事典』(主婦と生活社、2000年)「賞金がかかった榊原康政の首級」141頁