プロフィール

織田家を乗っ取ろうとする秀吉を、達筆で対抗、檄文を書いて非難。秀吉から怒りを買い、康政の首に一〇万石の賞金がかかる。
詳細
1.小牧・長久手の戦い

祖父の代から松平氏に仕えていた家柄に生まれた康政は、一三歳から
家康に仕えました。
織田信長死後、天下を狙う
羽柴秀吉が動き出します。これを阻止すべく天正一二年(1584)信長次男の
信雄・家康連合軍が秀吉と小牧・長久手で戦うことになりました。
そのとき康政が「信長の家臣であった秀吉が、その恩も忘れて信孝様(信長三男)を滅ぼし、今度は信雄様を討って主家を乗っ取ろうとしている。主君家康公、今、大意の為に秀吉を討ち滅ぼしましょう。」といった檄文(げきぶん)を書きました。しかも達筆でした。
これに怒った秀吉は、康政の首に一〇万石の賞金をかけたので、逆に康政の株が益々上がる結果に。一方、長久手にあって先鋒隊の康政は、秀吉軍最後尾の秀次軍を攻撃。ふいをつかれた秀次軍は、敵の二倍の兵力を持ちながらあっけなく敗走。この戦いで秀吉軍の池田恒興・
森長可は戦死しました。
2.関ヶ原の戦い
関ヶ原の戦いの際に康政は徳川秀忠に属して、家康と別ルート中山道を進軍。途中に
真田昌幸・
幸村親子の上田城がありました。
徳川は以前、真田家との戦いに敗北していたため、秀忠は昔の屈辱を果たそうと思いました。一緒についてきた家康側近の本多正信は断固反対しましたが、康政は秀忠に賛同。
かくして徳川対真田の戦いの火蓋は切られ、結果、少数の真田家に敗北し、現地・関ヶ原戦には間に合いませんでした。
戦後、家康は水戸二五万石を与えようとしましたがこれを固辞。慶長五年(1600)六年間老中に就きましたが「老臣が権を争うは亡国のもと」といって、政治向きのことは本多正信らに任せたと言います。
榊原康政 相関図
徳川家
主君:徳川家康
康政を気に入った武将
ライバル
参考文献
- 小和田哲男 監修『ビジュアル 戦国1000人』(世界文化社、2009年)「榊原康政」302頁
- 奈良本辰也 監修『戦国武将ものしり事典』(主婦と生活社、2000年)「賞金がかかった榊原康政の首級」141頁