官吏への道
1.幼少期
- 書堂(ソダン,서당):七~八歳までに入学。漢文の読み書き、儒教経典の初歩的知識。
2.青年期
- 四部学堂(サブハクダン,시부학당):四学。国の中央教育機関(東学・西学・南学・中学)。漢城在住者。15~16歳で各種儒教経典や文書作成法などの学習。
- 郷校(ヒャンギョ,향교):国の地方教育機関。年齢、内容は四学に同じ。
3.科挙:文科・小科(生員試・進士試)
- 初試(チョシ,초시):二〇歳前後で受験、合格 二四〇人。
- 復試(ポクシ,복시):最終合格 一〇〇人。
白牌教旨(合格通知)
- 国王発給。成均館入学許可、生員・進士の称号。初級文臣任官も可。
4.成均館
- 入学定員二〇〇人、のち一二六人。二~三年間の研鑽を積む。
5.科挙:文科・大科
- 初試
- 復試
- 殿試(チョンシ,전시):最終合格者 三三人。
紅牌教旨(合格通知)
- 国王が発給。
中級文臣への採用
- 甲科:主席合格者・壮元は従六品で、二等・榜眼と三等・深花(郎)[註1]は正七品で任官。/乙科・四~一〇位:正八品で任官。/丙科・残り二三人:従九品で任官。
解説
1.概要
朝鮮王朝の役人は一般的に、官吏登用試験である科挙(かきょ:カゴ,과거)合格者です。
中国から冊封を受ける朝鮮王朝は、人材登用においても中国の科挙に習い、優れた人材が集めました。なお、朝鮮王朝の科挙制度は『経書大典』(キョングクテジョン,경국대전)によって規定されています。
2.受験資格
科挙は法的には、農民以上の良人(ヤンイン)であれば科挙を受けて官職に進出することができました。しかし実際は、経済的に余裕のある班家(반가,パンガ)と呼ばれる両班の家の子弟で占められていました。
3.試験
定期試験の式年試は、三年に一度しか行われません。しかし臨時の科挙(増広試や別試など)もしばしば実施されました。文官の文科(ムングァ,문과)は、小科(初級官僚)と小科合格後の大科(中級官僚)があります。武官は武科(ムグァ,무과)、また雑科(チャプグァ,잡과)[註2]がありました。
小科(ソグァ,소과)
生員試(センウォンシ,생원시:明経科)は儒教経典の知識を問われ、進士試(チンサシ,진사시:製述科)は詩・賦・表・付箋・策問などの文章作成を課されました。受験者はどちらかを選んで受験、試験は初試と復試の二段階。生員試と進士試は試験日が異なるため、両方受験し両方合格する強者もいました。
本来、生員試と進士試は最高学府・成均館への入学試験。しかし国王から合格通知の白牌教旨(ペクペキョジ,백패교지)を与えられ、初級官僚の資格を得て任官することもできました。
大科(テグァ,대과)
成均館に入学した受験生は、二~三年間の研鑽を積み、大科の初試・復試・殿試に挑みます。王の御前の殿試により最終合格者の三三名が選ばれ、甲乙丙科の成績順が決まりました。大科までの競争率は時代によって異なりますが、およそ三〇〇〇倍の厳しさでした。
及第年齢
文禄・慶長の役で日本の武将と戦った宰相・柳成龍は二五、儒者・姜沆は二六、通信使・金誠一は三一、軍総司令官・権慄は四六歳で文科に及第しました。
例外
科挙を通りながらも政争を嫌い、中央での官職に固執しない者もいた。その代表的な学者は李滉(イ・ファン:退渓(テゲ))や李滉(イ・イ:栗谷(ユルゴク))など。
文禄・慶長の役で活躍した義兵将・郭再祐は、科挙の答案に国王の意に添わない文章があって合格が無効。一方、日本人の沙也可は朝鮮軍として侍と戦い、功績が称えられて正二品まで上りつめた。
補註
参考文献
- 六反田豊 監修「競争率三千倍の狭き門「科挙」」『朝鮮王朝がわかる!』(成美堂出版、2013年)30-31頁
- 張淑煥(監修・著)、原田美佳 他(著・訳)「儒教と科挙」『朝鮮王朝の衣装と装身具』(淡交社、2007年)155頁