プロフィール
織田信長の家臣。越中富山の武将。
早くから信長に仕え、柴田勝家の与力となり、前田利家・不和光治と共に越前二郡を宛がわれる。
信長死後は勝家に属し、賤ヶ岳で羽柴秀吉軍と争うが敗北し、信長時代からの仲間たちを失う。
徳川家康が秀吉の天下取りに待ったをかけるも、小牧・長久手の戦いで秀吉と家康の間で和議が成立。
生き残りの反秀吉派として、家康に再度挙兵を求め、厳冬の立山を越える――!
詳細
1.早くから信長家臣
成政は尾張国春日井郡の出身で、織田信秀に仕えた佐々盛政の次男。
早くから信長に仕え、永禄三年(1560)桶狭間の戦いで兄正成と三〇〇余で参戦。しかし兄が戦死したため、成政二二歳は跡を継いで一族を引き連れ、馬廻役・黒母衣(くろほろ)武者として信長二七歳に近侍しました。
元亀元年(1570)姉川の戦いで成政三二歳は鉄砲隊五〇〇人を指揮、上坂源吾の首をあげました。
天正三年(1575)長篠の戦いでは、武田軍騎馬三番隊の小幡一党の赤武者が馬を馳せて柵内を突入しようとしたところ、成政三七歳の指揮する足軽が鉄砲で撃ちました。
2.府中三人衆
同年の越前一向一揆攻めの功により柴田勝家の与力となり、前田利家、不和光治と共に越前二郡を宛がわれ、府中城に入り府中三人衆と呼ばれました。
さらに北陸平定戦の功により同九年(1581)二月、越中一国を与えられて富山城を居城としました。翌年六月に本能寺の変があり、成政はこのとき勝家に従い、利家と共に越後の上杉景勝と対戦中でした。
3.賤ヶ岳の戦い
同年同月の清州会議で、信長の跡継ぎに羽柴秀吉は、信長嫡子信忠の遺児である三法師を担ぎ出し、丹羽長秀がこれに賛同。
秀吉の意見が取り入れられましたが、信長三男信孝を推した柴田勝家や滝川一益らは納得がゆきませんでした。かくして同一一(1583)賤ヶ岳(滋賀県)において柴田勝家軍二万と秀吉軍三万が対陣。成政は勝家に従いこれに参戦しました。
勝家の甥・佐久間盛政が夜襲をかけて、秀吉軍を敗走させました。しかし盛政は本陣に戻らず、秀吉軍は疾走した勢いのまま攻撃に出て、のちに七本槍と呼ばれる福島正則・加藤清正が活躍して、盛政軍は総崩れになりました。
秀吉と内通していた前田利家は盛政軍の後方にいましたが、盛政軍が秀吉軍の反撃を受けているときに退却し始めました。勝家軍は大敗北して自害。信長次男信雄の命で信孝は切腹しました。
4.小牧・長久手の戦い
天下取り一方手前の秀吉にとって、残る目の上のたんコブは信雄と徳川家康。生き残りの反秀吉派である越中の成政は、家康から秀吉攻撃の計画を聞かされ、当然の如くこれに従いました。
同一二年(1584)小牧・長久手の戦いで、信雄・家康が秀吉争うと成政四六歳は加賀に攻め入り、秀吉と組んだ前田利家を朝日山・荒山城に攻め、さらに自ら大軍を率いて末森城を攻めましたが破れ、東方から上杉勢からも攻められ挟撃されました。
5.冬のアルプス越え
信雄・家康が秀吉と和睦を成立させると、それを不満として再度秀吉と戦うよう家康を説得しようと決意。
しかし本拠の富山から家康のいる浜松に向かうも、道中は全て秀吉軍に抑えられていたため、厳冬の立山ザラ峠を越えるしかありません[図]。
成政はこれを敢行し、浜松の家康のもとに行って抗戦を唱えました。しかし聞き入られられず、浜松から帰国したときには六〇人いた従者が七人になっていました。翌年、秀吉に攻められて、降伏して死を免れ越中新川郡に減封されました。
天正一五年(1587)九州平定に出陣、肥後一国を与えられ熊本城主となりました。しかし入国早々の検地などから多くの国人の反抗にあい、その責めを受けて所領を没収され、秀吉の命で自害しました。享年五三
成政のあと熊本城主となった清正は、成政の介錯に立ち会ったとされます。
佐々成政 相関図
佐々氏
- 父:盛政、母:堀場氏?
- 兄:正成
- 子:松千代丸、随泉院、岳星院ほか
織田政権
頼みの綱
参考文献
- 高瀬保「佐々成政」『天下取り採点 戦国武将205人』(新人物往来社、1998年)142頁
- 奈良本辰也 監修『戦国武将ものしり事典』(主婦と生活社、2000年)「冬のアルプスを越えをした佐々成政」473頁
- 小和田哲男 監修『ビジュアル 戦国1000人』(世界文化社、2009年)「佐々成政」33頁