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文禄・慶長の役

漆川梁(チルチョンリャン/しっせんりょう)海戦 元均朝鮮水軍VS藤堂、脇坂、島津ら日本軍

目次

慶長の役の流れ基本データ

解説:1.統制使・元均 2.元均戦死

関連記事参考文献

慶長の役の流れ

慶長二年(1597) 慶長三年(1598)
日本軍北上 形勢逆転 日本軍南下 倭城に籠る 8月秀吉死去、続々と帰国 最後の戦い
7月中旬 8月中旬 9月初旬 同中旬 12月下旬 10月初旬 9~10月初旬 11月中旬
漆川梁海戦 南原の戦い 稷山の戦い 鳴梁海戦 蔚山の戦い 泗川の戦い 順天の戦い 露梁海戦

基本データ

漆川梁海戦
年月日 慶長2年(1597)7月14日~16
場所 慶尚道 巨済島(거제도/コジェド)漆川梁(칠천량/チルチョンリャン)
概要 李舜臣なしで日本水軍に挑む元均朝鮮水軍の惨劇
対戦軍 兵数 日本水軍 約500隻 朝鮮連合水軍 約170隻
大将 藤堂高虎藤堂高虎 水軍統制使 元均
部隊 脇坂安治脇坂安治加藤嘉明加藤嘉明/陸地部隊 島津義弘島津義弘 慶尚右水営 慶尚右水使 裵楔(ペ・ソル)12隻 他
全羅右水営 全羅右水使 李億祺(イ・オクギ)7隻 他
忠清水営 忠清水使 崔湖(チェ・ホ)他
勝敗 勝(閑山島掌握。) 負(ほぼ壊滅、元均・李億祺・崔湖戦死。)

解説

1.統制使・元均

慶長の役地日本軍進路
図1:慶長の役 日本軍進路図

文禄の役は第二次晋州城の戦いを最後にして、一時停戦に入り、その間小西行長小西行長と明 外交家の沈惟敬は虚偽の文書を作成してまで日明和議交渉の為、奔走しました。

しかし豊臣秀吉豊臣秀吉に虚偽が暴かれ、交渉決裂。慶長二年(1597)二月、秀吉が日本の諸将に対して朝鮮再出兵の陣立てを定めました。

一方、朝鮮朝廷は、全羅左水使李舜臣李舜臣と全羅右水使・元均が同じ身分では水軍をうまくまとめることができない為、李舜臣を慶尚・全羅・忠清三道をまとめる三道水軍統制使(以下、統制使と呼ぶ)に任命。

しかしこの人事の二か月後、元均は李舜臣を陥れ、朝廷にうまく取り入って、自身が統制使となり、李舜臣が定めた制度を皆廃止、李舜臣の信任した副将・士卒も皆追放しました。

一方の李舜臣は獄に繋がれたあと、権慄の元で白衣将軍(一兵卒として従軍)として過ごすことになりました。

日本軍再出兵(慶長の役)が始まると、統制使・元均が同年六月に安骨浦・加徳島の日本軍を攻撃しましたが敗退。

七月、慶尚右水使・裵楔(ペソル)が藤堂高虎藤堂高虎脇坂安治脇坂安治加藤嘉明加藤嘉明ら日本水軍に敗退。この時、元均は出陣しませんでした。

権慄は、李舜臣を引きずり落として貴様は何なのだ!と元均をとがめ、杖罰を施し前進するよう命令しました。

2.元均戦死

漆川梁海戦
図2:漆川梁海戦

元均は憤懣(ふんまん)やるかたなく、漆川梁(チルチョンリャン)に帰り毎日酒を飲んで、ろくに軍議もしませんでした。

同年七月一五日夜半、日本水軍の大船団が襲撃。f元均は退却して休息。翌一六日、日本水軍はこれを奇襲。ここで、全羅右水使・李億祺(イ・オクギ)や忠清水使・崔湖戦死(チェ・ホ)が戦死。

元均は陸地に逃れましたが、陸地で待ち伏せていた島津義弘島津義弘軍の襲撃を受けて戦死。李舜臣が作り上げた朝鮮水軍もこの一戦でほぼ壊滅してしまいました。戦闘中、裵楔が一二隻率いて遁走。

これにより日本軍は閑山島を手に入れましたが、李舜臣が統制使に復活するのでした。

  

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慶長の役 主な戦い

漆川梁海戦/南原の戦い稷山の戦い鳴梁海戦蔚山の戦い泗川の戦い順天の戦い露梁海戦

文禄の役 主な戦い

玉浦海戦閑山島海戦第一次晋州城の戦い平壌の戦い碧蹄館の戦い

幸州山城の戦い第二次晋州城の戦い

相関図

朝鮮・明連合軍文禄の役 日本軍慶長の役 日本軍

概要

文禄・慶長の役とは

地図

東アジア各国関係図朝鮮八道色分け地図文禄の役 日本軍進路

慶長の役 日本軍進路図倭城とは 分布図と一覧合戦地図

年表

文禄の役 年表慶長の役 年表

参考文献

笠谷 和比古, 黒田 慶一 『秀吉の野望と誤算―文禄・慶長の役と関ケ原合戦 』(文英堂、2000年)

北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略 (日本歴史叢書) 』(吉川弘文館、1995年)

崔 官『文禄・慶長の役〔壬辰・丁酉倭乱〕文学に刻まれた戦争 (講談社選書メチエ) 』(講談社、1994年)