基本データ
概要
陣容
日本水軍 約500隻
朝鮮連合水軍 約170隻
結果
日本水軍:閑山島掌握。/朝鮮連合水軍:ほぼ壊滅。元均・李億祺・崔湖戦死。
解説
1.統制使・元均
文禄の役は第二次晋州城の戦いを最後にして、一時停戦に入りました。その間小西行長と明外交家の沈惟敬は虚偽の文書を作成してまで日明和議交渉のため、奔走。
しかし豊臣秀吉に虚偽が暴かれ、交渉決裂。慶長二年(1597)二月、秀吉が日本の諸将に対して朝鮮再出兵の陣立てを定めました。
一方、朝鮮朝廷は、全羅左水使・李舜臣と全羅右水使・元均が同じ身分では水軍をうまくまとめることができないため、李舜臣を慶尚・全羅・忠清三道をまとめる三道水軍統制使(以下、統制使と呼ぶ)に任命。
しかしこの人事の二か月後、元均は李舜臣を陥れ、朝廷にうまく取り入って、自身が統制使となりました。李舜臣が定めた制度を皆廃止、李舜臣の信任した副将・士卒も皆追放。一方の李舜臣は獄に繋がれたあと、権慄の元で白衣将軍(一兵卒として従軍)として過ごすことになりました。
日本軍再出兵(慶長の役)が始まると、統制使・元均が同年六月に安骨浦・加徳島の日本軍を攻撃しましたが敗退。七月、慶尚右水使・裵楔(ペソル)が、藤堂高虎・脇坂安治・加藤嘉明ら日本水軍に敗退。この時、元均は出陣しませんでした。
権慄は、李舜臣を引きずり落とした元均をとがめ、杖罰を施し前進するよう命令しました。
2.元均戦死
元均は憤懣(ふんまん)やるかたなく、漆川梁(チルチョンリャン)に帰り毎日酒を飲んで、ろくに軍議もしませんでした。
同年七月一五日夜半、日本水軍の大船団が襲撃。元均は退却して休息。翌一六日、日本水軍はこれを奇襲。ここで、全羅右水使・李億祺(イ・オクギ)や忠清水使・崔湖戦死(チェ・ホ)が戦死。
元均は陸地に逃れましたが、陸地で待ち伏せていた島津義弘軍の襲撃を受けて戦死。李舜臣が作り上げた朝鮮水軍もこの一戦でほぼ壊滅してしまいました。戦闘中、裵楔が一二隻率いて遁走。
これにより日本軍は閑山島を手に入れましたが、李舜臣が統制使に復活するのでした。
参考文献
- 笠谷和比古・黒田慶一『秀吉の野望と誤算-文禄・慶長の役と関ケ原合戦』(文英堂、2000年)
- 北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略』(吉川弘文館、1995年)
- 崔官『文禄・慶長の役〔壬辰・丁酉倭乱〕文学に刻まれた戦争』(講談社、1994年)