基本データ
概要
陣容
島津軍 約10,000人
明・朝鮮連合軍 約40,000人
結果
日本軍 討ち取った敵の数38,717人/明・朝鮮連合軍 退却。
解説
1.経緯
豊臣秀吉の命により慶長二年(1597)、日本軍が朝鮮へ再侵攻。
宇喜多秀家・島津義弘らの軍は穀倉地帯の全羅道(チョルラド)に進軍し南原城を落としました。
緒戦は優勢な日本軍でしたが、経略・楊鎬がソウル進行を目論む黒田長政・毛利秀元らの軍を稷山(チクサン)で撃退。
続いて楊鎬は、提督麻貴(まき)と次の目標を加藤清正に定めて、朝鮮軍都元帥 権慄らと共に蔚山倭城を六万の大軍で包囲。これにより清正軍は苦しい戦い強いられ、これ以降日本全軍は一気に戦線縮小に傾きました。
蔚山の戦い後、慶長三年七月、明軍一〇万は首都ソウル・漢城(ハンソン)に集結。これを総督・邢玠(けいかい)が下記に示すように四路に分けて漢城から南下させました。
明・朝鮮連合 四路軍
- 東路軍:蔚山倭城へ進軍、提督 麻貴率いる明軍24,000人および朝鮮軍5,500人
- 中路軍:泗川倭城へ進軍、左都督 薫一元24,000人および朝鮮軍2,300人
- 西路軍:順天倭城へ進軍、総兵官 劉綖13,600人および都元帥 権慄以下10,000人
- 水路軍:順天倭城へ進軍、水軍都督 陳璘13,200人および統制使 李舜臣以下7,300人
2.戦闘
泗川(サチョン)倭城は、慶長二年十月下旬に、長宗我部元親・中川秀成・伊藤祐兵(すけたか)・秋月種長・高橋元種らが築城。同年一二月二八日に島津義弘・忠恒父子が入城しました。
また泗川倭城の北側にはかつて朝鮮側が築いた泗川邑城(ゆうじょう)がありました。
慶長三年八月に秀吉が死去し、五大老は朝鮮の日本軍の撤退を決定しました。九月上旬、中路提督・薫一元は、明・朝鮮連合軍を率いて、晋州に陣を構え、これに麻貴率いる東路軍も合流し、三万六千七〇〇余人に達しました。
これに対し島津軍は南江(ナムガン)の対岸にある出城の望晋(マンジン)倭城に寺山久兼、永春(ヨンチュン)倭城に川上久智を、また船津浦の対岸の昆陽(コンヤン)倭城に北郷三久・伊集院忠真を配置しました。
明軍はまず望晋倭城に入り攻撃。同日麻貴は永春(ヨンチュン)倭城を攻撃し、翌日には昆陽倭城にも放火。島津軍の出城を落とし、南江を越えた明軍でしたがこれは義弘の罠でした。
余勢をもってして薫一元は、九月二八日、川上久智籠る泗川邑城に押し寄せました。義弘の撤退命令により退却しようとした島津の兵は包囲直前に城外に討って出て一五〇人の死者を出し、川上久智は脱出しました。
一〇月一日、薫一元率いる連合軍が泗川倭城に押し寄せ、矢や銃弾を浴びせました。これに対し、島津軍は一斉に鉄砲で迎撃。そうこうするうちに、昆陽筋から北郷三久・伊集院忠真らが出撃し逃げる明兵を追撃。蔚山倭城は普請半ばでしたが、泗川倭城は鉄砲隊の戦術にみあった城郭が完成していました。
島津家記録『征韓録』によれば、このとき打ち取った首は三万八千七百十七であり、これらの鼻を削いで大樽に詰めて日本に送りました。