華夷(中国と周辺諸国の関係)
関係:対象国/特徴
解説
1.冊封とは
冊封(さくほう、さっぽう)とは本来、中国国内で皇帝が王侯に爵位(しゃくい)を与えて封じることを言い、これを対外的に用いた場合、中国皇帝が周辺国の君主に王といった爵号を与えて名目的な君臣関係を結ぶことを言います。
その始期は、漢時代に南越(なんえつ:今の広東あたり)が冊封だったことに始まるとされています。また明代には礼部が対外関係を管轄しました[註1]。
2.華夷とは
冊封の前提には華夷思想がありました。華夷思想とは、古代中国で礼や法を体現する文化地域の「中華」と、それ以外の地域は文化を知らない「夷狄」(いてき)[註2]として峻別したもの。
すなわち中国人にとって外国人その全てが野蛮人。かくして「東夷の人」荻生徂徠は、日本にも西洋にも生まれず古代中国のみに生まれた堯や舜などの聖人の道を、政治思想の拠り所にしていました。
一方で中国には、夷狄が中国皇帝の徳を慕って礼を受け入れるなら、中国を頂点とする華の一員になれる王化思想もありました。これに応じた朝鮮や琉球などは、毎年の朝貢を義務付けられ、中国の暦や元号を使用することで「一員」であることをたえず確認。
また「中華世界」では、中国にのみ皇帝が存在し、周辺国の君主は王と名乗りました。
3.土司、羈縻、互市関係
中国とその周辺国との関係は一様ではありませんでした。
緊密な関係にある朝鮮や琉球などは冊封関係、西南地域には土司(どし)・士官を配置、女真など北方遊牧民とは羈縻(きび)[註3]関係に位置付けられます。
その外延のロシアや西洋諸国とは形式的には朝貢関係ですが、実質的には貿易のみの互市(ごし)の国として位置付けられます。日本は明と勘合貿易を行っていたので互市とされます。
ともあれ安南(あんなん:ベトナム)などを除くと、基本的に中国が被冊封国の内政に直接干渉することはありませんでした。かくして西欧的観念でいうところの宗主国と属国との関係とは少し異なります。
4.朝鮮と琉球の利点
文禄・慶長の役において、朝鮮は明に応援を求め、明が何度も援軍を派遣。こうした背景には、朝鮮が朝貢として長年に渡って常日頃(一年三貢)明へ進貢品を献上することを怠らなかったことが挙げられるでしょう。
一方、関ヶ原の戦い後、島津氏は琉球王国に侵攻。しかし幕府は島津の領分であっても異国とし、琉球王国は幕府軍役対象外の無役でした。
これは幕府が慈悲深いのではなく、明が滅びて清になっても冊封体制に組み込まれ続けること――則ち冊封使が執り行う儀礼と共に皇帝から中山王(琉球国王)として名指しされること――これによって琉球王国は王権を維持したのでした。
冊封というゆるい関係は、日常ではなく有事において、その潜在力の極みを見ることになるでしょう。
補註
参考文献
- 高良倉吉・田名真之 [編]『図説 琉球王国(ふくろうの本)』(河出書房新社、1993年)
- 砂本文彦「冊封とは」『図説 ソウルの歴史(ふくろうの本)』(河出書房新社、2009年)33頁
- 紙屋敦之『琉球と日本・中国(日本史リブレット)』(山川出版社、2003年)
- J.M.ロバーツ『世界の歴史5 東アジアと中世ヨーロッパ』(創元社、2003年)49頁
- 吉川幸次郎「徂徠学案」『日本思想大系36 荻生徂徠』(岩波書店、1973年)634,637頁