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プロフィール

三河国(愛知県)生まれ。徳川家康の家臣で京都所司代。
通称・甚兵衛、四郎右衛門。三〇代半ばまで僧侶だったが、父と跡継ぎの弟が死去して還俗。
家康の臣下になって、関ヶ原の戦い後に京都所司代。二条城の普請奉行も務めた。
豊臣勢力や朝廷・寺社対策に腐心し、京都市中に対しては法制、裁判、宗教政策などの面で善政を行い、名所司代として後世に名を残す。
詳細
1.元禅僧
勝重は父・板倉好重、母・本多光次の娘の子として三河国(愛知県東部)に生まれました。
幼時に出家し、三〇代半ば過ぎまで禅僧として香誉宗哲と称しました。しかし父・好重と跡継ぎの弟・定重の戦死すると、天正九年(1581,本能寺の変前年)三六歳の時に還俗して家を継ぎました。
その年、徳川家康が駿府に移ると、その町奉行、その四年後の関東移封の際には、江戸町奉行並びに関東代官になりました。その一〇年後に関ヶ原の戦いがあり、三年後の慶長八年に家康が征夷大将軍に任命されると、勝重は伊賀守に叙任、京都所司代になりました。
2.京都所司代とは

京都所司代は、室町幕府の侍所(さむらいどころ)の所司代に由来し、織田信長が
村井貞勝に任じたのに始まり、
豊臣秀吉が天下を治めるとこれを前田玄以を任じました。
関ヶ原後は家康が奥平信晶に任じ、信晶が幕府初代・京都所司代になります。慶長六年には板倉勝重、そのとは子の重宗が継ぎ、板倉父子の活躍で京都の治安が確立しました。
所司代の職務は京都の護衛、朝廷や公家の監察、京都町奉行・奈良奉行・伏見奉行の管理、近畿八カ国の幕府領の訴訟の処理、西国大名の監察などで定員は一名。京都所司代は譜代から選任され、老中につぐ要職となりました。
3.通信使、天皇、豊臣対応

さて京都所司代在任中の勝重は、豊臣勢力や朝廷・寺社対策に腐心し、京都市中に対しては、法制、裁判、宗教政策などの面で善政を行い、名所司代として後世に名を残しました。
豊臣政権下で七年にも及んだ文禄・慶長の役。家康は日朝国交回復のため朝鮮に和議を求めました。対馬の宗義智と外交僧の
景轍玄蘇らの尽力もあって、朝鮮は通信使の派遣を決定。慶長一二年(1607)に江戸期第一回朝鮮通信使が来日すると、勝重は京の大徳寺で丁重におもてなしをしました。
一方、譲位を決意した後陽成天皇と家康とが対立していましたが、勝重が奔走し事態は収束。同一六年(1611)二月、政仁親王一六歳の譲位が実現されました。
また豊臣氏や西国諸大名の動静は、確実に家康に通報され、豊臣氏滅亡の原因となった方広寺鐘銘事件は金地院崇伝とともに暗躍したようです。
大坂の陣を経て、豊臣氏が滅亡した四年後、勝重は一六年務めた所司代を子の重宗に譲り、その五年後、堀川三条の隠居屋敷にて死去しました。享年八〇。
ところで二条城は、京都市中京区にある城郭で関ヶ原の戦いに勝利した家康が築き、普請奉行には勝重が務めました。織田信長が
足利義昭のために建てた通称二条城とは位置が異なります。
板倉勝重 相関図
徳川家
主君:徳川家康
朝廷
後陽成天皇と家康の間を奔走。
京都所司代元祖
僧侶
参考文献
- 高尾一彦「板倉勝重」『国史大辞典1』(吉川弘文館、1979年)608頁
- 永原慶二 編『日本歴史大事典』(小学館、2000年)
- 『ブリタニカ国際大百科事典 小項目電子辞書版』(ブリタニカ・ジャパン、2008年)