プロフィール

遠江国(静岡県)出身。譜代大名筆頭・彦根藩初代。幼名は万千代。
徳川家康家臣団における、パワハラ上司。
もとい、新参メンバーにして徳川四天王の一。
関ヶ原の戦いでは東軍として、豊臣恩顧の福島正則と先陣を争い、徳川が先陣を切ることに成功したけれど――
詳細
1.パワハラ上司

井伊氏は代々今川氏の家臣。直政二歳の時に、織田家に内通していたとの疑いで父・直親(なおちか)が殺されました。
直政は親族の家にかくまわれていましたが、一五歳の時に徳川家康が鷹狩に向かう路上で拝謁。以降、小姓から育てあげられました。かくして徳川四天王の一に数えられ、一番年若く石高が一番高い武将になりました。
本多忠勝とは対照的に数々の合戦でけがを負いましたが、けがのたびに近くにいた者に自分の兜をかぶらせ「自分の影武者となって敵を追え」と命じたといいます。
また部下に対して厳しく、僅かな落ち度で手討ちにされることもあったため「家族とは毎朝別れの水盃(みずさかずき)を交わしている」者もありました。
直政は家康より旧武田家臣を預かった際に、兜・武具・旗などは赤で統一。以降「井伊の赤備え」と言われ、また小牧・長久手の戦い以降は徳川軍先鋒として活躍しました。
2.関ヶ原の戦い

2003年撮影
慶長五年(1600)関ヶ原の戦いおいて先陣は、福島正則隊と決まっていました。
しかし東軍の直政の軍勢三〇騎が抜け駆けをし、西軍の宇喜多秀家に攻撃を開始。すなわち豊臣恩顧の正則に先陣の功を奪われるのを嫌い、徳川譜代の意地を見せた――井伊の赤備えが真っ赤な嘘をついたのでした。
戦後、西軍に与(くみ)した土佐国の長宗我部盛親は、領土を没収されましたが、直政の取り成しで命だけは助けられました。
一方の直政は、関ヶ原の戦いで敗走する島津義弘隊を追撃中に右腕を被弾。その傷が尾を引いて、関ヶ原の戦いの一年半後にこの世を去りました。享年四二。
3.似ている直弼

直政は関ヶ原の功により、佐和山一八万石に封じられました。死後、子の直継が跡を継ぎ、同八年(1603)彦根山に築城を開始、のちに彦根城にうつりました。
しかし病弱により、家康の命で家督を異母弟の直孝に譲りました。直孝は大坂の陣での大功などにより加増を重ね、三五万石を領しました。また譜代大名の元老として将軍家光、家綱を補佐。
その後も彦根藩は幕政に重きをなし、井伊直弼ら五人の大老を出しています。直弼は弓・茶などを極めるストイックな人物。周りにも厳しく安政の大獄を断行し、これにより桜田門外に齢(よわい)四六で倒れてしまうところまで、直政を彷彿させるような人物なのでした。
井伊直政 相関図
井伊氏
- 父:直親、母:奥山親朝の娘
- 長男:直継(直勝と改名し上野安中藩初代)
- 次男:直孝(彦根藩二代)
- 直弼:一五代彦根藩主
徳川家
参考文献
- 奈良本辰也 監修『戦国武将ものしり事典』(主婦と生活社、2000年)
- 小和田哲男 監修『ビジュアル 戦国1000人』(世界文化社、2009年)「井伊直政」303頁