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戦国武将解説

本多正信(ほんだ-まさのぶ)初期幕閣を担う家康側近の裏の顔

目次

プロフィール詳細本佐録について

相関図関連記事関連記事補註

プロフィール

本多正信
Masanobu Honda

家康の超お気に入りの側近。通称・佐渡守(さどのかみ)。

武人としてではなく行政面で活躍し、初期幕閣を担う。

方広寺鐘銘(しょうめい)事件、また、大久保忠隣失脚事件の陰の演出者とも言われている。

有名な政治論書・本佐録の著者は、正信とも藤原惺窩とも言われ、いまだに謎に包まれている。享年79(1538-1616)。

同い年は前田利家北条氏政鍋島直茂長宗我部元親金誠一

詳細

1.家康と以心伝心

通称、弥八郎、佐渡守(さどのかみ)。天文七年(1538)三河国生まれ。

正信は、徳川家康徳川家康の腹心中の腹心で、家康の好きなものとして、「鷹殿(鷹狩)、佐渡殿(正信)、お六殿(一番若かった側室)」に挙げられるほどです。

家康との仲は、友達のようでもあり、二人の会話はいつも言葉少なくして、意志が通じ合ったといいます[註1]。

家康より四つ年長の正信は、幼少の頃から家康に仕えていました。しかし永禄六年(1563)の三河一向一揆の時は、一揆方に加わり、家康に反抗。その為、和議成立後は三河国を追放され、諸国を流浪し、加賀国に住みました。のちに許され、帰参し、姉川の戦いに従軍しました。 

2.関東総奉行

豊臣秀吉豊臣秀吉の時代になると、内政や外交政策が重視されるようになり、戦場での活躍より実務には長けていた正信の時代到来。家康の厚い信任を得て、正信は行政能力や知略を発揮するようになります。

天正十八年、家康の関東入国後、関東総奉行に任ぜられ、甲斐の経営にも尽力しました。

上田城外観
上田城 2002年撮影

関ヶ原の戦いで正信は徳川秀忠徳川秀忠に属し、大久保忠隣・忠教(ただのり)兄弟、榊原康政榊原康政らとともに上田は支障なく通過し、中山道を急ぎ諏訪に出で家康軍に合流する予定でした。

しかし秀忠はついでだから、上田城の真田昌幸真田昌幸真田幸村幸村の父子を倒しておくべし!と言って聞かず、正信は制止しましたが受け入れてもらえず、戦闘が始まってしまいました。

結果は、真田軍三千五百に対し徳川軍・三万八千の軍勢がまさかの敗北。おまけに現地・関ヶ原に遅れてしまい、天下分け目の戦いに参加することができませんでした。

3.家康の側近となる

戦後は家康の側近となり、井伊直政井伊直政本多忠勝本多忠勝、榊原康政、大久保忠隣とともに徳川政権の中枢を担いました。

江戸幕府成立後は、二代将軍・徳川秀忠徳川秀忠付きの老職となり、慶長七年に直政、同十一年に康政、同十五年に忠勝が続いて亡くなったのちには、家康の信頼も厚く、大久保忠隣とともに初期幕閣を担いました[註2]。

4.特技は謀略

正信は、家康の加増を断るほど、金銭に関しては精錬でしたが、反面、用心深く隙のない人物でした。

最後まで豊臣家の滅亡を狙っており、金地院崇伝も深く関わっている方広寺鐘銘(しょうめい)事件、また、同僚の大久保忠隣失脚事件の陰の演出者であると言われて、決して正信を敵に回してはいけないのでした。享年七九。

本佐録について

さて、江戸の初期思想史に於いて、よく引き合いに出されるものに、本佐録(ほんさろく)という、天下国家を治めるための要を説いた書があります。

本佐録という書名から連想できるように著者は本多正信としたい所ですが、藤原惺窩藤原惺窩説もあり、いまだにわかっていません。

内容は、二代将軍・秀忠から政治の要点を尋ねられた正信が、政治の心得、大名の統制、農民支配など七か条が記したものとなっています。

本多正信 相関図

主君

徳川家康徳川家康徳川秀忠徳川秀忠

同僚

戦国時代:本多忠勝本多忠勝榊原康政榊原康政井伊直政井伊直政  

幕閣:南光坊天海金地院崇伝林羅山板倉勝重/正信の謀略にハマった人:大久保彦左衛門

ライバル

戦国時代:豊臣秀吉豊臣秀吉石田三成石田三成真田昌幸真田昌幸

大坂の陣:淀殿(茶々)素材淀殿(茶々)豊臣秀頼豊臣秀頼真田幸村真田幸村

  

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本多正信イラスト

補註

註1:奈良本 辰也 (監修), 主婦と生活社 (編集) 『戦国武将ものしり事典 』(主婦と生活社、2000年)参照

註2:国史大辞典編集委員会 (著)『国史大辞典 (12) 』(吉川弘文館、1979年)