プロフィール
周防国(山口県)の守護代にして大内義隆の側近。
しかし義隆という人物に危機感を覚えに謀反を起こす。
詳細
大内義隆(よしたか)の支配する周防国(山口県)は、その頃小京都と呼ばれ、山陰地方の征服を目指す毛利元就にとって大内氏は大きな壁でした。
大内氏の筆頭重臣である陶氏は古い家柄。大内氏の屋敷から陶氏の当主が帰る時は大内の当主が自ら陶氏当主を見送るというしきたりがあるくらい名門でした。また晴賢の美しい容姿を大内義隆に愛されたとも伝わっています。然しながら陶氏の権力は、大内氏を凌ぐ程になっていました。
大内氏当主・義隆は、京で伝えられた伝統文化を身につけることを域外にして来た文化人。都から公家や学者を呼びつけていました。また明の人たちが居住している「唐人小路」、大陸から本を輸入して売る「唐本屋」があったと言われます。
そんな山口にあって、一九歳で家督を相続した晴賢は武断派のリーダー。下剋上の世にあって、義隆の姿に危機感を覚えた晴賢は、かなり前から準備をしていた謀反を起こして義隆を自害させました。
晴賢は下剋上により戦国大名に上昇しようと意向はなく、九州の大友義長(よしなが)を招いて彼に大内氏の家督を継がせました。謀反は私利私欲のためでなく、ひたすら大内家存続のため――。しかしこれが見方を変えれば、晴賢の限界でした。
天文二四年(1555)厳島の戦い。知も勇も兼ね備えた武将とうたわれていた晴賢三五歳は、二〇〇〇〇軍勢を率い元就五九歳の四〇〇〇軍勢に挑むも、破れてここに自害しました。
辞世の句:何を惜しみ 何を恨みん 元よりも この有様に 定まれる身に
陶晴賢 相関図
参考文献
- 今村実「大内義隆」『天下取り採点 戦国武将205人』(新人物往来社、1998年)206-270頁
- 谷口克広「大内義隆・陶晴賢」『図説・戦国武将118-決定版』(学習研究社、2001年)138-139頁
- 小和田哲男 監修『ビジュアル 戦国1000人』(世界文化社、2009年)「陶晴賢」202頁