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プロフィール

筑後(福岡県南部)柳川(やながわ)立花氏の祖。大友氏筆頭家臣。
別名 戸次鑑連(べっき-あきつら)。幼名 八幡丸(はちまんまる)。
若い頃、雷を受けて半身不随となる。
足が動かない道雪は輿(こし)に乗って戦場を駆け巡り、主家の大友家の危機を何度も救う。
その姿に人々は鬼道雪と呼んだ。
詳細
大友氏は二〇代宗麟の代まで、三〇〇余年にわたって豊後(大分県)に君臨してきた名門家。
永正一〇年(1513)大友氏一門・戸次親家(べっき-ちかいえ)の子として、鑑連(あきつら)が生まれました。一四歳の時に父親家と死別、元服すると同時に家督を継ぎました。
立花氏は大友氏の別家で西大友と呼ばれ、代々筑前(福岡県北西部)立花山を居城として重きをなしていました。しかし毛利元就の筑前侵攻に際し、七代立花鑑載(あきとし)は毛利氏に通じて高橋鑑種(あきたね)とともに大友宗麟にそむきました。
宗麟から命じられ戸次鑑連は、永禄一一年(1568)に立花山城を落とし、毛利軍の進出を阻止。立花鑑載は自害に追い込まれてこの系統は断絶しました。かわって鑑連が宗麟の命により、元亀二年(1571)に立花氏の名跡をついで再興。剃髪後に道雪と名乗るようになりました。
若い頃、猛暑を避けて大木の下で昼寝をしていた道雪は、落雷に見舞われました。稲妻を浴びた道雪は、枕元の千鳥と名付けた愛刀で雷の中の雷獣を切り捨てました。そのため歩行ができなくなったものの、一命をとり止めることができました。
この時から千鳥改め雷切(らいきり)と改名。足が動かないので、戦場においては輿(こし)に乗って敵の中に身を投じるというすさまじさで、鬼道雪と呼ばれていました。
かくして九州制圧を目論む島津義弘率いる島津氏の前には、大友家臣団筆頭の鬼道雪が立ちはだかっているのでした。そんな道雪との面会を遠く、甲斐の
武田信玄が望んだとされています。天正一三年(1585)九月、筑後国の陣中にて没しました。享年七三
道雪は男子に恵まれなかったため、盟友・高橋招運(じょううん)の子・宗茂を婿養子に迎えました。宗茂は、
豊臣秀吉の朝鮮出兵に際し明提督・李如松を碧蹄館で迎撃。その勇猛さは道雪・招運を彷彿させます。
立花道雪 相関図
戸次(べっき)氏
- 祖父:親宣(ちかのり)
- 父:親家(ちかいえ)、母:由布惟常の娘
立花氏:たちばなし
- 七代:鑑載(あきとし)。この系統は断絶。
- -:道雪、立花氏を継ぐ。
- 一人娘:誾千代(ぎんちよ)
- 婿養子:宗茂(高橋紹運の子)
ライバル
参考文献
- 小和田哲男 監修『ビジュアル 戦国1000人』(世界文化社、2009年)「立花道雪」218頁
- 岩井護「立花道雪」『天下取り採点 戦国武将205人』(新人物往来社、1998年)249頁
- 小和田哲男「立花氏」左同(監修)左同・菅原正子・仁藤敦史(編集委員)『日本史諸家系図人名辞典』(講談社、2003年)394-395頁