プロフィール
出羽国山形の戦国大名。伊達政宗の伯父。
関ヶ原の戦いでは東北で直江兼続と対決。
暗殺と謀略の血なまぐさい生涯を送るが、いい所もあるんです!?
享年69(生1546-没1614)。
詳細
1.弟を討つ
最上氏は清和源氏、足利一門斯波(しば)氏の氏族。南北時代、奥州管領・斯波家兼の子・兼頼(かねより)が、出羽最上郡(山形県)に入り、羽州探題となり、最上氏を称しました。
孫の満直の代に勢力拡大も、庶家の影響力が強くなり宗家の支配力は低下。永正一一年(1514)義定が伊達稙宗の山形侵攻に大敗してからは、伊達氏の圧迫も受けるようになりました。
一〇代義守(よしもり)の長男として生まれた義光。しかし義守は次男・義時(よしとき)をかわいがり、義時に家督を譲ろうとしました。
ここに相続争いが勃発し、領内の一族や国人衆、妹の夫である伊達輝宗までもが義光の敵となりました。しかし義光はこの四方八方敵だらけの中を戦い抜き、弟の義時を討ち滅ぼしました。
この戦いで義光は、最も頼りになるのは家臣団であると痛感。一族は信用できないと、一族を暗殺や謀略することに火が付いてしまいました。
かくして義光は、長男の妻の父である白鳥長久が最上家にとって邪魔な存在となれば、病気だと偽って見舞いにわざわざ来てくれた長久を殺害してしまうのでした。
2.政宗との戦い
義光は、隣国の伊達政宗 とも激しく争い、伊達の臣・鮎貝氏をそそのかして反逆させました。それ以来、政宗はこの伯父(母の兄)に終生不信感を抱くことになります。
義光は更に、大崎・最上・芦名・佐竹から成る反政宗包囲網を作り上げましたが、大崎氏が政宗に事実上屈服、臣従することになり、義光は逆に孤立するようになってしまいました。もはやこれまでかという時に、豊臣秀吉の私戦禁止令が出て、危機を切り抜けました。
しかし豊臣政権下では、豊臣秀次の妾となった娘の駒姫が、不運にも処刑されるという出来事が襲いました。
関ヶ原の戦いにおいて義光は、徳川家康の東軍につき、上杉景勝の配下である直江兼続の猛攻撃に苦戦していました。しかし西軍の石田三成の敗北により、なんとか助かりました。
3.最上氏の命脈
関ヶ原の戦い後、庄内地方、由利郡も加増され、山形藩主初代、五七万石の大名となりました。しかし家康の意により義光の跡は次男・家親にするようにと言われれば、長男・義康を殺害してしまいました。
そんな義光ですが、城下町の町割など民政や治水灌漑に力を尽くました。北楯大堰(きただて-おおぜき)などは今も庄内平野をうるおしています。
義光亡き後は、義康側についていた家臣の恨みつらみがあり、最上家を継いだ家親三六歳は変死。家親の子・義俊(よしとし)が、出羽山形藩三代となりましたが、内紛のため元和八年(1622)に近江(滋賀県)大森一万石に削減、移封となりました。
さらにその子・義智(よしとも)は五〇〇〇石に削減され、高家となりました。
最上義光 相関図
最上氏
- 祖父:義定。最上氏九代。
- 父:義守、母:永浦尼
- 妹:義姫
- 子:義康、家親ほか
近江大森藩
- 孫:義俊。山形藩主二代・家親の子。近江大森藩初代。
- 曾孫:義智。義俊の子。高家となる。
ライバル
その他
参考文献
- 誉田慶恩「最上義光」『国史大辞典13』(吉川弘文館 1992年 )809-810頁
- 七宮涬三「最上義光」『天下取り採点 戦国武将205人』(新人物往来社、1998年)27頁
- 小和田哲男「最上氏」左同(監修)左同・菅原正子・仁藤敦史(編集委員)『日本史諸家系図人名辞典』(講談社、2003年)674頁
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