赤松氏:あかまつし
播磨(兵庫県)の守護・戦国大名。村上源氏。
鎌倉時代初期・建久二年(1191)宇野則景のとき、播磨(兵庫県)佐用(きよ)荘の地頭に任じられ、末子の家範が荘内赤松村の地名によって赤松氏を称したといいます。
鎌倉幕府討滅後、家範の曾孫にあたる則村は、足利尊氏に属し播磨守護に任じられ、のちに備前・美作(岡山県)の守護を兼ね、四職(ししき)家の一つとして勢力を拡大。
しかし嘉吉(かきつ)元年(1441)則村曾孫、満祐(みつすけ)が将軍足利義教を殺し、山名・細川氏らの軍勢に追討され没落。一族の政則が再興し、その妻は女大名として権勢ふるうも、戦国時代に衰退し嫡流は断絶。庶流の但馬(たじま:兵庫県)竜野城主・広通は、関ヶ原の戦いで西軍に属し、断絶しました。
系譜
- 則景(のりかげ):宇野もしくは山田を称す。
- 家範(いえのり):則景末子。赤松氏を称す。
南北朝時代
- 則村(のりむら):家範曾孫。後醍醐天皇方として活躍も、恩賞を不服として、建武二年(1335)尊氏が新政府に反するとこれに応じ、追討の新田義貞軍を播磨で阻止。則村は播磨、長男範資は摂津、次男貞範は美作の守護に任じられる。享年七四。法名は円心。
- 則祐(のりすけ):則村三男。則村の家督を継ぐ。播磨・備前(岡山県)両国の守護。享年六一
- 義則(よしのり):則祐長男。播磨・備前・美作(岡山県)三国守護と同時、幕府侍所の所司(しょし:長官)となり、四職家(ししきけ:山名・一色・京極・赤松)の一つとして重きをなす。享年七〇
- 満祐(みつすけ):義則長男。将軍足利義持・義教による赤松氏勢力削減を目的とした策に反発、嘉吉(かきつ)元年(1441)義教を暗殺(嘉吉の乱)。山名・細川氏らの軍勢に追討され、自害。享年六九
- 政則:義則の曾孫。赤松氏の遺臣らが南朝から神璽(しんじ)を奪い返した功により、嘉吉の乱で没落した赤松氏を再興。家督相続を許される。応仁の乱では細川方に属し、播磨・美作・備前の守護職を回復。享年四二。
室町時代
- 政則:義則の曾孫。赤松氏の遺臣らが南朝から神璽(しんじ)を奪い返した功により、嘉吉の乱で没落した赤松氏を再興。家督相続を許される。応仁の乱では細川方に属し、播磨・美作・備前の守護職を回復。享年四二。
- 洞松院(どうしょういん):細川勝元の娘めし。女戦国大名。政権確保のため、政則の後妻。政則と死別し、洞松院と号する。以後、養子の義村の後見として勢力をふるい、「大めし様」と呼ばれた。
戦国時代
参考文献
- 小和田哲男「赤松氏」左同(監修)左同・菅原正子・仁藤敦史(編集委員)『日本史諸家系図人名辞典』(講談社、2003年)59-60頁
- 水野恭一郎「赤松氏」『国史大辞典1』(吉川弘文館、1979年)70-71頁