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戦国人物解説

荒木村重(あらきむらしげ)全てを失った侘しさを茶に昇華

目次

プロフィール詳細:1.謀反を企てる 2.有岡攻め

3.報復に屈せず 4.数奇な運命相関図参考文献関連記事

プロフィール

荒木村重
Murashige Araki

摂津(大阪・兵庫)有岡城主。幼名は弥介。

織田信長の上洛を機に信長に属す。村重の有岡城が在る摂津国は、「仏敵信長」として各地の一向宗徒に戦いを指示した石山本願寺も在る。

かくして信長方として石山合戦に奮戦していたが、信長に背いて、本願寺側と盟約をかわし、有岡城にたて籠もる。

有岡城は本願寺攻めの大事な拠点だったので、信長万事休す。信長は有岡に兵を差し向けるが、信長側近が討死。長期戦となる――!

享年52(1535-1586)。

同い年は島津義弘丹羽長秀九戸政実。信長より1つ年下。

詳細

1.謀反を企てる

荒木村重_関係地図
図:荒木村重_関係地図

村重は摂津(大阪・兵庫)池田城主・池田勝正の家臣でしたが、織田信長織田信長の上洛にあたって勝正とともに天正元年(1537)に信長に仕えました。信長から摂津(大阪・兵庫)一国を与えられ、石山本願寺攻撃に当たりました。

かくして天正四年(1576)四月、摂津で繰り広げられた本願寺側の雑賀衆の鉄砲攻撃に対して、織田方として村重は細川藤孝細川藤孝明智光秀明智光秀らと共に奮戦。

しかし石山合戦の最中の同六年(1578)一〇月、村重四四歳は信長四五歳にそむきました。村重の有岡城(兵庫県伊丹市)は、宣教師ルイス・フロイス曰く「甚だ見事なる城」で、また本願寺攻めの大事な拠点だったので、信長万事休す。

何故こんなことになったのかと言えば、村重が本願寺に兵糧を送っているという噂が、信長に流れてしまったことに始まります。

一度信長の信用を失えば、信長のことだからタダでは済まないと家臣たちの意見もあって、信長に逆らう決意をしたのでした。

2.有岡攻め

本願寺顕如と盟約をかわし、足利義昭足利義昭毛利氏と通じた村重。しかし味方だった高山右近・中川清秀は信長に降伏してしまい、有岡城で毛利氏の援軍を頼ることとなりました。

嫡男村次の室は信長臣下の明智光秀明智光秀の娘。これを離縁させ、この娘を光秀の元に帰らせました。反面、村重の本意を確かめに織田から来た黒田官兵衛黒田官兵衛は幽閉し、この間に官兵衛は片足不自由になりました。

一方、有岡攻めにおいて信長方は、側近の万見重元が討死しました。長期戦となり、翌年同七年に入っても村重は屈服しませんでしたが、光秀が隣国の丹波・丹後を平定。毛利の援軍が来ず、村重は九月二日夜、五、六人の者だけをつれて有岡城を忍び出て、村次の籠る尼崎城に移りました。

3.報復に屈せず

信長方は、妻子の助命に尼崎城(尼崎市)と花隅城(神戸市)を引き渡すことを条件にしましたが、村重はこの条件を拒否。

一一月一九日有岡城は開城し、一二月一六日村重や一族の妻子らは六条河原で首を切られました。取り乱すことなく、覚悟を決めての最期だったといいます。これより先、村重方の有力武士の妻子一二二人は七松で磔にかけられました。

しかもこれで終わらず、下級武士の妻子ら女性三八八人、妻子ら仕えた若党ら男性一二四人の合わせて五一二人を家四つにとじ込め、焼き殺しにしました。

村重はその後も尼崎城に立てこもり続け、花隅城兵も屈しませんでした。しかし同八年(1580)三月に本願寺顕如が信長に降伏すると、村重は尼崎城を船で脱出し、毛利氏を頼りました。一方、花隈城を攻略した信長の乳兄弟池田恒興は、その功により有岡の地を与えられました。

4.数奇な運命

この後、村重は豊臣秀吉豊臣秀吉に茶の湯で仕え、千利休利休七哲の一人となりました。一族みな斬首ということで茶の湯の達人になるまでは、さすがにつらい思いをしていたようです。

村重がはじめて信長に謁見した際の天正元年三月。信長が槍の先に饅頭を突き刺して差し出すと、村重は顔色一つ変えずにその饅頭を食べました。信長はその豪胆さを褒めたといいます。

「数奇」な運命の人の茶は、苦く深そうです。

荒木村重 相関図

荒木氏

  • 父:義村、母:不明
  • 子:村次、村基、岩佐又兵衛ほか

織田政権

有岡攻め

信長を裏切った武将たち

豊臣政権

参考文献

関連記事

利休七哲:蒲生氏郷細川忠興