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水牛角脇立兜
解説
桃山~江戸(一六~一七世紀)、個人蔵「黒漆塗頭形兜」(くろうるしぬりずなりかぶと)[文献1]を参考に描きました。本多家伝来と伝えられるが確かなことは不明。頭形兜に木製の水牛角の脇立が付いています。
由来、意味
水牛は琉球だけ入り、以北の日本では家畜として知られませんでした。それでは何故、兜(脇立)が水牛で「なければならなかった」のでしょうか。
十二支の一である牛(丑)は、古代中国思想・五行説において水気の動物。さらに水牛は水と牛の組み合わせで、非常に強い水気を持ち合わせています。
さて、兜をかぶる場面は戦争。放火は常套手段で、例えば文禄の役における平壌の戦いでは、李如松将軍率いる明軍が、優れた大砲を用いて平壌城に籠る小西行長軍を追い詰めました。
五行火気の相克(そうこく)関係にあるのが、すなわち水気。相手の火を、水気の動物である水牛の力で消す、打ち剋(か)つべし、と願いを込めたのが恐らく水牛脇立兜。
江戸時代、夏の暑さをしのぐため、土用の丑の日に(牛が食べられないこともあり)鰻を食べる発想もほぼ同じ。また牛は耕作においては畜力として活躍し、身近な力のある動物でした。
また水気は五行色において黒。当素材兜の色と一致します。
私の知る限り専門書において、兜の視覚的な見所の説明はあっても、由来の説明がなされていません。当時の人は、決して現代人のように五行説に無関心ではなかったので、上記推察する次第です。
エピソード
さて、文禄・慶長の役の日本軍の準主役とも言える黒田長政。彼もまた行長同様キリシタン大名ですが、所用の大水牛兜は有名で、黒田家当主をはじめ重臣も用いています。長政肖像に描かれている一の谷兜は、もと福島正則が愛用し、後に長政が自分のものと交換したというエピソードがあります。
参考文献
- 「28 黒漆塗頭形兜」個人蔵『合戦と武具』(石川県立歴史博物館 編集・発行、1998年)75頁
- 伊澤昭二(甲冑解説)「長政所用大水牛脇立桃形兜」『図説・戦国武将118-決定版』(学習研究社、2001年)178頁