プロフィール
臨済宗の僧侶にして家康のブレーン。
以心崇伝(いしん-すうでん)、伝長老ともいわれる。
南禅寺の金地院に住んでいたが、秀吉の参謀だった西笑承兌の紹介で家康に接近、以後、幕府の外交事務を担当。
方広寺鐘銘事件では、豊臣家に難癖をつけ大坂の陣のキッカケ作りに成功。
伴天連(ばてれん)追放令、禁中並(ならびに)公家諸法度、武家諸法度を起草。幕府の根幹を創るも、紫衣事件でまたも暗躍する――
詳細
1.家康との出逢い
崇伝は将軍足利義輝の家臣・一色秀勝の子で、室町幕府滅亡後に臨済宗南禅寺に入り、建長寺住職を経て、三七歳で南禅寺住職となりました。
衰微していた南禅寺の塔頭の一つである金地院を復興して同院に住んだため、金地院崇伝と呼ばれています。
秀吉の朝鮮侵攻で暗躍した、臨済宗相国寺高僧西笑承兌。承兌は、秀吉死後は家康に仕え、承兌の推薦により崇伝は四〇歳の時に駿府で家康に会いました。
これがキッカケで外交事務を任されるようになり、のちに幕府の外交事務のほとんどは崇伝の手によって行われることとなりました。
四二歳の時、駿府に金地院を建てて移り住み、四四歳以降は板倉勝重らとともに諸寺院の取締りなど宗教関係の行政にもあたりました。
2.方広寺鐘銘事件
晩年の家康は、豊臣を潰すチャンスを探っていました。そんな時、豊臣秀頼が再建した方広寺の鐘に「国家安康」「君臣豊楽」の銘が刻まれていました。
崇伝はこの時、これを家康を切り裂いて呪い、豊臣家が栄えるのを願うものだという難癖をつける役目を果たし、大坂の陣のきっかけを作りました。また崇伝とともに板倉勝重も暗躍していたそうです。
3.武家諸法度
元和元年(1615)大坂落城後、家康は崇伝らに命じて武家諸法度の草案を起草(きそう)させ、検討ののち、七月七日に将軍秀忠が諸大名を伏見城に集め、崇伝に朗読させて公布させました。この法度により幕府は大名を厳しく統制。
内容は大別すると政治・道徳上の訓戒(くんかい)、治安維持の規定、儀礼上の規定となりますが、これにより幕府と諸大名の関係は、これまでの私的な従属関係から脱して公的な政治関係となりました。つまり大名は各領国において公儀として領民に臨み、そのことにより領域的支配の正当性を認められました。
4.権現VS明神
家康死後、家康を日光山に神として祭るのに、その称号を「権現」とすべきか「明神」とすべきかで、同僚の南光坊天海と大論争が起こります。明神を主張した崇伝は権現を主張した天海に敗れてしまいました。
それでもこの時はまだ幕府の中枢にあり、今度は江戸の芝に金地院を建てました。
5.紫衣事件
紫衣(しえ)は、高位・高徳の僧に着用する紫色の布衣や袈裟(けさ)で、紫衣着用には朝廷の認可を必要としました。
くわえて幕府は慶長一八年(1613)、朝廷の許可以前に幕府の事前認可を必要とすることを規定。これは幕府の、朝廷側や寺院勢力への統制強化の一環でした。
幕府が寛永三年(1627)、紫衣着用の朝廷許可を無効にしたところ、翌年、大徳寺の玉室宗珀と沢庵宗彭(有名なあの沢庵和尚のこと)らが抗議。
崇伝は、玉室宗珀と沢庵宗彭の処分に厳科を主張し、両人を流罪に処し世の誹謗を受けました。三年後沢庵に対しては徳川家光によって赦免が出され、崇伝の声望はようやく衰えました。
6.黒衣の宰相?
僧であって政治を左右する者を「黒衣(こくえ)の宰相(さいしょう)」と呼び、崇伝や天海がなどがこのように称されます。
しかし幕府における崇伝の職責は、あくまで外交文書や法度などの文章作成。政策決定に参加するするものではありませんでした。
よって三代家光まで仕えた天海は別として、崇伝における「黒衣の宰相」という後世の評価は高木昭作氏[文献1]も指摘するように過大評価と言えそうですが、その職務上の記録である『異国日記』『本光国師日記』などは幕政の重要史料です。