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戦国人物解説

本多忠勝(ほんだ-ただかつ)蜻蛉切キラリされど槍を突くは小身武士

目次

プロフィール詳細:1.三方ヶ原 前哨戦 2.本能寺の変

3.長久手、関ヶ原の戦い相関図参考文献関連記事

プロフィール

本多忠勝
Tadakatsu Honda

三河国(愛知県)出身。幼名・鍋之助。

上総国(千葉)大喜多城主、関ヶ原のあと伊勢国(三重県)桑名城主。

徳川家康の家臣で、四天王の一人。愛用の長い槍は蜻蛉切(とんぼきり)。

三方ヶ原の戦い前哨戦では殿(しんがり)として活躍。長久手の戦い、関ヶ原の戦いでも華々しい戦功をあげる。

忠勝曰く「合戦において槍を突くのは小身武士の技」その真意とは――!?

享年63(1548-1610)。

同い年は榊原康政西笑承兌、北政所。徳川家康より5歳年下。

詳細

1.三方ヶ原 前哨戦

東海地方_戦国時代地図
図:東海地方_戦国時代地図

徳川家康徳川家康の家臣として、特に存在感のある武将・本多忠勝本多忠勝徳川四天王の一で、鹿の角の兜が有名です。

先祖代々徳川家に仕えてきた家柄に生まれ、五七度の戦場を経験。しかし一度も傷を負ったことがありませんが、織田信長信長曰く「花も実も兼ね備えた勇士」。

幼い頃に父を失い、また幼い頃より家康に仕えた忠勝の初陣は永禄三年(1560)桶狭間の戦いで一三歳。この頃、家康こと松平元康は今川義元今川義元の人質で、義元が桶狭間で戦死したことにより、独立しました。

元亀三年(1572)一〇月三日武田信玄武田信玄は、上洛途中の障害である遠江の家康を打ち払うため、二万五〇〇〇を兵をもって甲府を発ちました。

家康は浜松城を発ち天竜川をわたり、武田軍は先回りして家康本陣の退路を遮断。このとき、家康の殿(しんがり)軍を引き受け、押し寄せる武田軍を食い止めたのが忠勝二八歳でした。(三方ヶ原の戦い前哨戦)

2.本能寺の変

明智光秀明智光秀が信長へ謀反を起こしたとの知らせを聞いた時、家康は三〇数人の家臣を連れて堺を見学している所でした。

この知らせは家康含め、酒井忠次酒井忠次榊原康政榊原康政井伊直政井伊直政大久保忠隣などは驚きの余り思考停止に。

家康は「この少数の兵ではどうしようもならないし、雑兵の手にかかる前にこのまま信長公に殉じよう」と提案。忠勝はとりあえず三河に戻り兵を挙げ、光秀の首を取ることが大切だと主張。みな気を取り直して、忠勝の意見に賛同しました。

3.長久手、関ヶ原の戦い

天正一二年(1584)四月長久手の戦いでは、数万の豊臣秀吉秀吉の軍勢を三〇〇騎で食い止めようとした胆力ぶりに、秀吉から「東に本多平八郎あり、西に立花宗茂立花宗茂あり」と賞賛されました。

慶長五年(1600)九月関ヶ原の戦いでは、僅かの手勢で九〇余の首級をさらいました。また、東軍のど真ん中を敵中突破し薩摩に帰還しようとする西軍の島津義弘島津義弘隊を全力で追撃。この時、忠勝と違ってけがの多い井伊直政は、島津隊追撃中に右腕を被弾。この傷が尾を引いて、関ヶ原の戦いの一年半後にこの世を去りました。

戦場で活躍し続けた忠勝ですが、ある時、息子たちの槍の稽古を見て大変怒り、こう言いました。

「合戦において槍を突くのは小身武士の技であり、大身は人数を扱う采配の振りようをよく稽古すべきである。自分も小身の時は自身で槍を取ったが、大身となった今は、もう自分の槍を取ることなく、采配を取って人数を扱うばかりである。」と。

本多忠勝 相関図

主君:徳川家康徳川家康 

徳川四天王:榊原康政榊原康政井伊直政井伊直政酒井忠次酒井忠次

同僚:本多正信大久保彦左衛門石川数正  

  

参考文献

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本多忠勝

素材:肖像本の字紋軍旗/イラスト:リアルPOP