プロフィール
『三河物語』著者。彦左衛門は通称で、名は忠教(ただたか)。
家康の家臣として、二八歳上の兄・忠世(ただよ)とともに数々の合戦に参加、戦功を立てる。
待遇面ではパッとしなかったが、家康・秀忠・家光の三代に仕え、時勢に流されず古武士の意地を貫いて、天下の御意見番として後世まで人気を博す。
しかしその過程で、忠世の子・忠隣が改易の憂き目にあっていた――
享年80(1560-1639)
詳細
1.祖父と父
彦左衛門の祖父・宇津忠茂(うつ-ただしげ)は、三河(愛知県)安祥(あんじょ)城主・松平清康(家康の祖父)に仕えていました。忠茂の長男・忠俊のとき、大久保に改称したそうです。
忠茂の三男・忠員(ただかず)は、彦左衛門の父。忠員は、松平宏忠・家康父子の家臣。清康の死によって岡崎城を追われた宏忠を、兄・忠俊らとともに帰還実現のため尽力。また永禄六年(1563)の三河(愛知県)一向一揆では一族とともに上和田砦(とりで)を守り、家康を支えました。
2.長兄・忠世
遡って彦左衛門は、永禄三年(1560)忠員の八男として三河に生まれました。
忠員の長男・忠世(ただよ)は、三河の一向一揆、三方ヶ原(VS武田信玄)、長篠の戦い(VS勝頼)などで戦功を立てましたした。彦左衛門もまた二八歳上の長兄・忠世に従い、多くの合戦に参戦。天正一八年(1590)家康関東入国後、小田原城主となった忠世は文禄三年(1594)に六三歳で死去。
その遺領を継いだのは、忠世の長男・忠隣(ただちか)四二歳。彦左衛門三五歳は、七歳上の甥・忠隣に小田原で扶養されていました。のち彦左衛門五五歳は、家康に仕えて三河額田郡で一〇〇〇石の地を新たに与えられ、鑓(やり)奉行となりました。
3.彦左衛門の武勇伝
関ヶ原の戦いのあと、二三歳上の次兄・忠佐(ただすけ)は駿河(静岡県)沼津城主、二万石。石高はひくいものの要衝の地として、家康からも重視されていました。
しかし忠佐は嫡子が早世したため、彦左衛門に養子になるように依頼。彦左衛門一〇〇〇石は、この申し出を拒絶。手柄をたてて大名になるならまだしも、兄の譲りをうけて大名になるのは本意ではありませんでした。慶長一八年(1613)忠佐七七歳が死去、沼津藩大久保氏は断絶しました。
元和元年(1615)大坂の夏の陣の際、彦左衛門は家康の旗が崩れたことを、のちに論功の席で家康に逆らって強情に否定し、主家の恥を認めなかったいいます。
寛永九年(1632)、彦左衛門七三歳は旗奉行となり、翌年一〇〇〇石加増され、同一二年、三河の三〇〇石の地を常陸鹿島郡に替えられました。享年八〇
4.甥・忠隣の改易
大久保一族は家康覇業の功臣であり、長兄・忠世、その嫡子・忠隣は重用されていました。
忠隣は、二代将軍・秀忠の擁立に尽力して老中に就任。しかし側近の本多正信との確執によってか、慶長一九年(1614)改易されて近江国(滋賀県)に蟄居させられました。
時勢に対する彦左衛門の不満の一因は、ここにあったとされます。彦左衛門は、家康・秀忠・家光の三代に仕えた戦場の生き残りとしての自負と誇りにかけて、古武士の意地を通す処世の態度を取ったようです。
彦左衛門の著作『三河物語』上中下三巻には徳川家代々の事績や、大久保一族の活躍はもとより時勢批判を伺い知ることができます。各巻の終わりには門外不出と追記されていました。
大久保彦左衛門 相関図
大久保氏
- 祖父:宇津忠茂
- 父:大久保忠員(ただかず)。忠茂三男。
兄たち
- 長兄:忠世(ただよ)。小田原城主、四万五〇〇〇石。
- 次兄:忠佐(ただすけ)。駿河沼津城主も無嗣断絶。
- 六番目の兄:忠為(ただため)。子孫は下野(栃木県)烏山藩(譜代)、二万石。
- -(当人):彦左衛門(忠教:ただちか)。忠員八男。
小田原藩(譜代)
- 忠隣(ただちか)。忠世長男、彦左衛門の甥。小田原城主→改易。
- 忠朝(ただとも):忠隣の孫。家光に近侍し、老中。小田原城主に返り咲き、一〇万三〇〇〇石。幕末に至る。
幕府代官頭
- 長安(ながやす):元武田家臣。忠隣の与力となって大久保に改姓。
徳川氏
著者のある人物
補註
- 小和田哲男「大久保氏」左同(監修)左同・菅原正子・仁藤敦史(編集委員)『日本史諸家系図人名辞典』(講談社、2003年)169-171頁
- 永原慶二編『日本歴史大事典1』(小学館、2000年)参照
- 伊東多三郎「大久保彦左衛門」『国史大辞典2』(吉川弘文館、1980年)548頁