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戦国講座

林羅山の思想 平易な儒教解説書と師匠への哀悼

光輝く文章

幕府の学者として成功を収めた林羅山

しかし、同じ江戸初期の儒教者の中江藤樹(とうじゅ)や、その弟子の熊沢蕃山(ばんざん)と比べて思想的に深くもなく、江戸の思想界に影響を与えたというわけでもありません。

――というのが、彼に対する一般的評価ですが、これは逆に奇説や曲学阿世を退け「御用の筋を第一とし」[]た学者先生にふさわしい態度といっていいでしょう。

私が読んだ中で思いがけず、五常については羅山著『春鑑抄』(しゅんかんしょう)、朱子学(儒教)の理(り)と気(き)については同著『三徳抄』(さんとくしょう)[文献1] が一番わかりやすかったです。

師・藤原惺窩藤原惺窩に対する哀悼が綴られた「惺窩先生行状」は、左記リンク先に掲載。師に対してここまで感動的な文章を書ける門人がいるだろうか。惺窩と共に、羅山を尊敬せずにはいられません。

他の宗教等について

羅山は、儒教以外の思想に寛容だった師匠の惺窩とは違い、若い時から露骨に仏教排撃の議論を振り回していました。

羅山の狙いは「儒教の精神的指導の確立」にあったので、排撃されるのは仏教のみだけでなく老荘の学もキリシタンの学もともに打倒されなければなりませんでした。

しかし神道だけは例外で、儒教を神道と結びつけて同一性を主張してしまうという羅山の態度は、和辻哲郎[文献3] が指摘するように、日本における儒教と神道との関係を伝統的に決定したといってよいでしょう。

また羅山は茶道玩物喪志といわんばかりに罵倒し、君子より見れば一握の小壺に過ぎぬ「肩衝(かたつき)を用いていかがせんや(『羅山文集』五六「肩衝」)」と言いました。

学問の開放

藤樹や蕃山は、羅山のような当時の儒学者は「史官」や「芸者」のようであり、学問が「産業」になった、嘆きました。

しかし伊東多三郎[文献4] は「中世までには、朝廷の博士家と禅林の内部だけに学問が独占されていたのが、今や解放されて望み次第学問する機会が開かれ、学問を「産業」とすることができる世の中になったことは、日本文化の大躍進でなくて何であろう。」と評価しています。

羅山は五八歳の時でも一年内に七百冊を閲読。そんな怖さ(笑)と謙虚さが同居する、日本を代表するにふさわしい儒家です。

補註

参考文献

  1. 石田一良 校注「林羅山」『藤原惺窩 林羅山(日本思想体系28)』(岩波書店、1975年)春鑑抄(五常)116-117頁、三徳抄(理気弁)161-171頁
  2. 石田一良「林羅山の思想」文献1より471-489頁
  3. 和辻哲郎『日本倫理思想史 三』(岩波書店、2011年)
  4. 伊東多三郎「羅山と物読み坊主」文献1より日本思想体系月報49

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