解説
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関ヶ原 西軍その2
当頁は、関ヶ原の戦い西軍各武将の軍旗その2です。戦闘が始まり、苦戦を強いられた東軍の徳川家康は焦っていました。松尾山に陣を張った西軍の小早川秀秋が寝返る算段になっているのですが、秀秋は迷っていました。
業を煮やした家康は松尾山めがけて鉄砲を放つと、驚いた秀秋は松尾山を下り大谷吉継隊を攻撃。しかし秀秋家臣の松野主馬(しゅめ)はそんなことはできないと大谷隊に攻め込みませんでした。
島津義弘は仕方なく西軍として陣を張りました。西軍の武将が全て敗れて島津隊だけ残されると、敗走はカッコ悪いので東軍のど真ん中を突き抜けることに。井伊直政や本多忠勝らの猛攻撃に合い、甥の豊久は戦死しましたが義弘は薩摩へ帰還しました。
長宗我部盛親は西軍として陣を張ったものの傍観。この態度は戦後、小早川秀秋の次に評判の悪い武将というレッテルを貼られました。
毛利輝元は西軍の総大将。石田三成や大谷吉継、安国寺恵瓊に頼まれて総大将になっとは言え、輝元は関ヶ原の戦いの時は大坂城に引きこもっていました。西軍のまとなりのなさ、きらいじゃないです?
参考文献
- 大野信長(図像考証・作図)『図説・戦国武将118-決定版』(学習研究社、2001年)
- 奈良本辰也 監修『戦国武将ものしり事典』(主婦と生活社、2000年)「関ヶ原の戦い」150-159頁
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石田・大谷・宇喜多・小西/小早川・島津・長宗我部・毛利