書籍情報
看羊録-朝鮮儒者の日本抑留記(東洋文庫 440)
紹介文
慶長の役(丁酉再乱)において、藤堂高虎の軍に囚われ日本に連れてこられた、姜沆三一歳。
曰く「このままここで死ぬのは、全く無意味に自殺するのと同じ」であり、「醜奴(日本)の情況は、既に私の眼中に捉え」たので「倭の情勢を記録」することにし、「緊急非常の場合、ままこの書をもって事態に対処して下さるよう」国王宣祖に宛てて書かれました。
姜沆はこの書を『巾車(きんしゃ)[録]』[註]と名付けましたが、門人・弟子たちが『看羊録』(간양록)と改めました。
かくして姜沆は、秀吉のことは勿論、家康・政宗、毛利輝元・宇喜多秀家・島津義弘など諸大名の経歴や性格、日本の地理も詳細に記しました。また日本の歴史については、律儀に『吾妻鏡』まで紐解いてしまうあたりは流石と言う他ありません。
日本の文化については「彼らは互いを呼ぶのに必ず「様(さま)」と言い、続いて「殿(どの)」と言います。書辞(書状の言葉)には必ず「御」をつけ、天皇から庶民に至るまでこれを通用しております。(中略)その(身分差に対応すべき)等級のなさはこのようであります。」と指摘。
これには成程と思いました。というのも私自身、朝鮮の京官や外官などの官位相当表を作成した際、細かいなとカルチャーショックを受けたので。(笑)
家元・明の官位相当表も細かいので日本が大雑把過ぎるのかもしれませんが、姜沆は別のページで朝鮮には有名無実と化した官職が多すぎるとも言っているので、どっちもどっち?
それにしても倭が憎くて憎くて仕方ない先生にとって、「大変聡明で古文をよく解し、書についても通じていないものがない」藤原惺窩との出逢いは思いがけない誤算だったかもしれません。
補註
「巾車の恩」の故事。後漢の馮異(ふうい)が光武帝に巾車(地名)で捕らえられたが、すぐ許された恩。