プロフィール
別名 香坂虎綱(こうさか-とらつな)。幼名は源助。源五郎、弾正忠を称し、信玄の命により高坂氏を継ぐ。
甲州の豪農・春日氏の子で、美少年であったため、信玄が一目ぼれ。これにより出仕して、若くして重臣に列せられる。
三方ヶ原の戦いでは家康軍を深追いはすべきでないと進言。その三ヶ月後に信玄死去。
勝頼が跡を継ぎ、迎える長篠の戦い。昌信は信濃にて上杉軍の守備を任されるが――
詳細
1.豪農の美少年
昌信は、甲州の豪農・春日氏の子で源助といい、天文一一年(1542)一六歳の時に武田信玄二二歳に拝謁。
信玄がまれに見る美少年であった源助に一目ぼれし、源助は出仕後、一ヶ月で奥近習に取り立てられました。源助は仕官当初は臆病者といわれましたが、一五〇騎の侍大将に抜擢され、若くして重臣に列せられました。異例の出世は信玄の寵愛とされています。
2.川中島の戦い
永禄四年(1561)八月、これまで信玄と三度戦ってきた上杉謙信が、今度こそ決着をつけようとして妻女山(さいじょさん)に布陣。
信玄はその前年に川中島を一望する要地(長野市松代町)に海津(かいづ)城を築いて、昌信を城将と立てました。同年九月、第四次川中島の戦いにおいて昌信は、上杉軍の殿軍部隊を切り崩しました。
3.三方ヶ原の戦い
元亀三年(1572)一二月、三方ヶ原の戦いで敗走してゆく徳川家康軍を更に追い詰めようとする武田軍。
昌信は北条氏政や織田信長、上杉謙信など近隣諸国の動きを忘れてはいけないと進言。信玄はじめ武田家臣みな、昌信の意見にハッとさせられ、徳川軍の深追いを止めました。
三ヶ月後の天正元(元亀四)年(1573)四月に信玄が病死、勝頼二八歳が父信玄の跡を継ぎました。
4.長篠の戦い
同三年(1575)長篠の戦いにおいて、昌信四九歳は一万の兵を率いて、信濃にて上杉軍の守備を任されました。
現地では織田軍の何千丁もの鉄砲隊の前にして、無敵だったはずの武田軍騎馬隊は次々に撃たれてゆきました。武田の主たる将、山県昌景、馬場信房、内藤昌豊、真田信綱・昌照兄弟(昌幸兄二人)、武田信実(のぶざね,信玄弟)らが戦死しました。
当主勝頼はじめ生き残って帰還した武田軍に、昌信はみじめな思いをさせまいと新しい武具や衣装を取り揃え、着替えさせました。
その後も昌信は勝頼を補佐し、武田家の新たな活路を見つけ出そうと奔走するなか、病に倒れ死にました。享年五二
5.『甲陽軍鑑』まで
『甲陽軍鑑』は昌信の残した記録をもとに、昌信の甥・春日惣次郎が補筆し、江戸初期に小幡景憲(おばた-かげのり)が集大成した書。
景憲の祖父・虎盛は信玄の祖父・信綱の時代から武田に仕え、父昌盛は信玄・勝頼の二代に仕えました。昌盛の子である景憲は軍学者で甲州流軍学の祖。
武田氏の滅亡により、孤児となった家康は憐れんで秀忠の侍童にしました。その後、兵学研究のため諸国を巡歴後、幕府に仕えました。『甲陽軍鑑』には信玄・勝頼二代にわたる事績、合戦、軍法などが記されています。
高坂昌信 相関図
武田氏
ライバル
著者のある人物
参考文献
- 中村整史朗「高坂昌信」『天下取り採点 戦国武将205人』(新人物往来社、1998年)76頁
- 小和田哲男 監修『ビジュアル 戦国1000人』(世界文化社、2009年)「高坂昌信」142頁
- 奈良本辰也 監修『戦国武将ものしり事典』(主婦と生活社、2000年)「長篠の戦い」106-113頁、「武田信玄と高坂昌信も…」250頁