本多氏:ほんだし

近世の大名(譜代)。藤原氏北家兼通(かねみち)流。
兼通の子左大臣顕光(あきみつ)より一一代の助秀(すけひで)が豊後(大分県)本多に住し、本多氏を称したのに始まります。一三代助政の子・定通と定正(定政)のときに二家に分かれ、その子孫はともに三河(愛知県)松平氏につかえて譜代の家臣となりました。
定通系は宗家とされ、定正系も含め当家は更に枝分かれして明治に至った大名家は八家、旗本は四五家にのぼります。
系図
宗家:桑名藩~姫路藩(~三河岡崎藩→幕末)
- 忠高:13.助政、14.定通~17.助時を経て20代目。忠勝の父。
- 忠政:忠勝長男。関ヶ原の戦いは
秀忠に従い上田城を攻撃。同一五年桑名藩二代。大坂冬・夏の陣に勇戦、元和三年(1617)播磨(兵庫県)姫路藩本多家第一次初代、一五万石。享年五七。
- 政朝(まさとも):忠政次男。叔父(忠勝次男)忠朝(ただとも)の跡を継ぎ、上総(千葉県)大喜多藩主二代。父の死により姫路藩本多家第一次を継ぐ。享年四〇
傍系:玉縄藩~宇都宮藩~皆川藩
- 俊正:13.助政、14.定正・15.定吉…の家系。正信の父。
- 正信:俊正の子。家康の側近。関東入国後は相模(神奈川県)玉縄一万石をあたえられた。
- 正純:正信長男。下野宇都宮藩主一五万五〇〇〇石も、秀忠に疎まれ改易。享年七三。
- 忠純:正信三男。下野皆川藩主二万八〇〇〇石。享年四六。二代は下記政重の子、三代で除封。
傍系:山崎藩→幕末
- 忠英:大和(奈良県)郡山藩主・本多政勝(忠勝の孫:忠朝の子)の五男。本多政信(宗家政朝の三男)の養子。播磨(兵庫県)山崎藩主初代。一万石。采配素材は当家に伝わるもの。
参考文献
- 小和田哲男「本多氏」左同(監修)左同・菅原正子・仁藤敦史(編集委員)『日本史諸家系図人名辞典』(講談社、2003年)590-597頁