詳細
南部氏の一族
豊臣秀吉が天下統一に向けて、小田原北条氏を滅ぼし、最後に戦う相手となったのは、奥州南部氏の九戸政実でした。
南部氏の祖は、源義家(よしいえ)の弟・新羅三郎義光の孫と伝わる南部光行(みつゆき)。文治五年(1189)、源頼朝による平泉藤原氏征伐の際の功により、陸奥国糠信郡(ぬかのぶのこおり)が与えられました。その後、三戸(さんのへ)に入部し、三戸城(岩手県三戸南部町)を築き居城としました。
こうして鎌倉時代からの武門の名門家は、二十六代信直に至るまで、四〇〇年近い時を経ていました。然しながら南部氏は、三戸・八戸(はちのへ)・九戸(くのへ)の三家が支配しており、最も力があった九戸でした。九戸一一代当主・政実は財力もさながら、人望もあり勇猛な武将として名高い人物。
九戸の乱
宗家 三戸氏二四代当主・晴政が病死すると、政実は実の弟・実親(さねちか)を次の当主に推薦。
しかし当主は、宗家三戸の田子信直(たつこのぶなお)のちの南部信直に決まりました。政実を中心とする九戸党はこの決定に大きな不満を持ち、三戸宗家にとうとう攻撃をしかけ、次々に城を落としていきました。
かくして当主の信直は秀吉に助けを求め、秀吉は豊臣秀次を総大将とする、蒲生氏郷・堀尾吉晴・浅野長政・石田三成・井伊直政など五万とも一〇万ともいわれる大討伐軍を派遣。これは、奥州再仕置の一環として行われたものでした。
豊臣軍の大討伐軍に対し、九戸軍は僅かに五〇〇〇余人。天正一九年(1591)八月二五日、豊臣軍は総攻撃を開始。秀吉の大軍に包囲された九戸城(岩手県二戸市)でしたが、政実は豊臣軍に大きな打撃を与え、城は容易に落ちません。
九月三日、浅野長政は助命を約束に開城を要求。四日、政実は、もはやこれまでと城を明け渡しました。しかし助命の約束は守られず、また政実や九戸党も初めから死は覚悟しており、政実・実親兄弟はじめ主だった武将はみな処刑されました。奥州再仕置を果たし、天下を統一した秀吉の次の目標は――隣国・朝鮮。
九戸政実の最期から約一か月後、日本本営・肥前(佐賀県)名護屋城築城が開始、翌文禄元年(1592)四月より、七年にも及ぶ海外戦争が始まるのでした。
九戸政実 相関図
南部氏
九戸の乱 ライバル
参考文献
- 山上笙介「九戸政実」『天下取り採点 戦国武将205人』(新人物往来社、1998年)10-11頁
- 細井計「奥州仕置と南部氏」『岩手県の歴史(県史3)』(山川出版社、1999年)166-169頁
- 谷口克広(武将解説)「南部信直」『図説・戦国武将118-決定版』(学習研究社、2001年)6-7頁
- 戦国大名篇「南部信直」『戦国覇王』(デル・ブラド・ジャパン社、2002~2003年)