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戦国人物解説

九戸政実(くのへ-まさざね)秀吉の奥州征伐に挑む反骨の武将

目次

プロフィール詳細相関図関連記事

プロフィール

九戸政実
Masazane Kunohe

奥州南部氏(岩手県を中心とした東北地方)の一族。

同氏は三家、三戸・八戸・九戸が支配しており、最も力があったのが九戸。

次の宗家当主に、九戸政実は実の弟を推薦。しかし宗家三戸の南部信直に決定すると、これに不満の政実は宗家に攻撃をしかける。

信直が秀吉に泣きついたため、奥州再仕置の一環として豊臣の大軍勢が、奥州に攻めて来た。これに対し政実は少数で迎え撃つ選択をする――!

享年57?(生1535?-没1591)。

同世代は織田信長島津義弘、秀吉、足利義昭

詳細

南部氏の一族

豊臣秀吉豊臣秀吉が天下統一に向けて、小田原北条氏政北条氏を滅ぼし、最後に戦う相手となったのは、奥州南部氏の九戸政実でした。

南部氏の祖は、源義家(よしいえ)の弟・新羅三郎義光の孫と伝わる南部光行(みつゆき)。文治五年(1189)、源頼朝による平泉藤原氏征伐の際の功により、陸奥国糠信郡(ぬかのぶのこおり)が与えられました。その後、三戸(さんのへ)に入部し、三戸城(岩手県三戸南部町)を築き居城としました。

こうして鎌倉時代からの武門の名門家は、二十六代南部信直信直に至るまで、四〇〇年近い時を経ていました。然しながら南部氏は、三戸・八戸(はちのへ)・九戸(くのへ)の三家が支配しており、最も力があった九戸でした。九戸一一代当主・政実は財力もさながら、人望もあり勇猛な武将として名高い人物。

九戸の乱

宗家 三戸氏二四代当主・晴政が病死すると、政実は実の弟・実親(さねちか)を次の当主に推薦。

しかし当主は、宗家三戸の田子信直(たつこのぶなお)のちの南部信直に決まりました。政実を中心とする九戸党はこの決定に大きな不満を持ち、三戸宗家にとうとう攻撃をしかけ、次々に城を落としていきました。

かくして当主の信直は秀吉に助けを求め、秀吉は豊臣秀次豊臣秀次を総大将とする、蒲生氏郷蒲生氏郷堀尾吉晴浅野長政浅野長政石田三成石田三成井伊直政井伊直政など五万とも一〇万ともいわれる大討伐軍を派遣。これは、奥州再仕置の一環として行われたものでした。

豊臣軍の大討伐軍に対し、九戸軍は僅かに五〇〇〇余人。天正一九年(1591)八月二五日、豊臣軍は総攻撃を開始。秀吉の大軍に包囲された九戸城(岩手県二戸市)でしたが、政実は豊臣軍に大きな打撃を与え、城は容易に落ちません。

九月三日、浅野長政は助命を約束に開城を要求。四日、政実は、もはやこれまでと城を明け渡しました。しかし助命の約束は守られず、また政実や九戸党も初めから死は覚悟しており、政実・実親兄弟はじめ主だった武将はみな処刑されました。奥州再仕置を果たし、天下を統一した秀吉の次の目標は――隣国・朝鮮

九戸政実の最期から約一か月後、日本本営・肥前(佐賀県)名護屋城築城が開始、翌文禄元年(1592)四月より、七年にも及ぶ海外戦争が始まるのでした。

九戸政実 相関図

南部氏

九戸の乱 ライバル

参考文献

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