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文禄・慶長の役

久米村三十六姓とは 琉球那覇の福建人のリアル

目次

琉球王国 地図概要秀吉の侵攻を明へ通報

補註参考文献関連記事

琉球王国 地図

那覇久米村

琉球王国 地図

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概要

東アジア地図
図1:東アジア各国関係図

中国福建(ふっけん)の人を閔人(びんじん)と言い、那覇久米村(くめむら)の閔人を三十六姓と呼びます。

久米村は、那覇市の久米町・天妃町(てんびちょう)にまたがる地域で九面里(久米村:くにんだ)と呼ばれていました。

渡来外国人の村であり、「琉球国図」(一五世紀)によると土塁で囲まれたなかに、唐人を中心に朝鮮人を含む一〇〇余りの家族が住んでいました。唐人の住宅は茅葺きの美しい建物で内部は朱色に塗り、住宅のなかには机椅子がありました。

彼ら久米村人(閔人三十六姓)は、琉球王国明朝への朝貢のほか、東南アジア交易で公文書作成、交渉、儀礼も担った職能軍団でした。

1392年(琉球)察度王のとき、航海、文書作成、典礼等の指南のため、三十六姓移民が来琉。三十六姓は漠然とした唱えた呼び方で、実数ではなく、文書修飾のために呼ばれたようです。数次にわたって来琉し、那覇久米村に定住しました。久米村を別名、唐栄とも言います。

琉球は明の琉球は彼らの交易における職能軍団としてのノウハウやネットワークを必要とし、彼らは琉球国の看板を必要としました。

近世久米村の中心勢力となった金(きん)・蔡(さい)・梁(りょう)・林(りん)・鄭(てい)ら五姓のいずれの家系も初代を三十六姓の一員とします。また琉球は一四世紀末以降、国士監(こくしかん:国立大学)に留学生を派遣しており、これは明清時代を通じて続けられました。

秀吉の侵攻を明へ通報

さて、豊臣秀吉豊臣秀吉朝鮮侵攻の兆しを察知して、明へ通報した三十六姓がいます。以下『全浙兵制孝』[1]より、鄭迵という名の三十六姓の声をお聞きください。

「琉球国中山王府長史[2]兼司事長史鄭迵、国家の大難を報じます。迵は原籍福建長楽県の人。かつて南京国士監(国立大学)の国学を経て、かたじけなくも天朝の厚恩を蒙り、長史・篆署司事を歴官するも、自ら凡庸にして万に一つも報いんと図ること能わざることを愧(はじ)ます。

いま倭王関白は、日本六六州を兼併して一主となり、ひそかに琉球・中国を席捲することを心に抱きました。万暦一七年三月(秀吉の)使者が琉球国に至って(中略)迵に金を贈り、大明に行き諭すよう言いました。

また時に琉球国王尚永が薨去し、世子(皇太子)尚寧王が新たに嗣ぎました。(中略)諸法司(琉球の三人の大臣)が世子と会して曰く「倭の心は悪賢い。ゆえに琉球朝廷はその貢を断つ。もし勾引して、亀裂をひらかばその禍は防ぎ難からん。」と。

迵は倭に対し固辞して受けませんでした。倭人は脅かすに威を以ってしようとしました。迵曰く「余は皇帝から賜った職名・三六姓の内に列し、国子監に就学しました。忠孝もとより大なり、をもって奮い立つべし。而して威をもって脅かすべからざる者です。」と。

世子は迵の多言を見、また堅持して屈しませんでした。人を遣わし日本に往き、代わって説明されました。関白は琉球の仏国なることを聞いて、いまだあえて兵を加えませんでした。」

私はこの文章を先に読んで三十六姓?と、このたび学習メモとして当頁を作るに至りました。

参考文献

  1. 那覇出版社編『沖縄の歴史-一千年の事件と文化がわかる』(那覇出版社、2000年)
  2. 安里進『琉球の王権とグスク(日本史リブレット)』(山川出版社、2006年)
  3. 佐久田繁編著『やさしい沖縄の歴史』(月間沖縄社、1993年)
  4. 安里進・田名真之・豊見山和行・西里喜行・高良倉吉『沖縄県の歴史(県史)』(山川出版社、2010年)
  5. 北島万次『豊臣秀吉 朝鮮侵略関係史料集成』(平凡社、2017年)

補註

  1. 文献5第1巻85頁より候継高編『全浙兵制孝』。琉球官人、明人海商、明人被捕人らが壬申倭乱前夜における日本の国内情勢を明側に通報した史料。当頁掲載文章は当サイトによる口語訳。
  2. 長史とは明の職官・王府長史司のことだが、鄭迵は久米村華僑の長に過ぎない。

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