目次
プロフィール
お江与(えよ)。崇源院(すうげんいん)。
浅井長政とお市の方(信長の妹)の三女で、淀殿とお初を姉に持つ。
結婚を三回も経験。一回目は佐治一成、二回目は豊臣秀勝、三回目は二代将軍・徳川秀忠。
御台所となるも、家光の乳母・春日局と関ヶ原に引けを取らない、天下分け目の戦いが始まる――!
享年54(1573-1626)。秀忠より6つ年上。
詳細
1.両親を失う
元亀元年(1570)姉川の戦いによって、実父浅井長政は織田信長に破れ、天正元年(1573)居城の小谷城も攻められて討ち死。
その時、実母お市の方はまだ赤ちゃんのお江らを連れて小谷城を脱出。夫の敵でありながら兄信長に助けられたお市の方は、信長の弟・信包(のぶなかね)の城で、茶々(長女)お初(二女)お江(三女)のちに浅井三姉妹と呼ばれる娘たちを育てました。
然しながら、同一〇年(1582)六月明智光秀の謀反により、本能寺で信長討ち死。同月、光秀は山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ、お市の方は信長三男信孝の勧めで柴田勝家と再婚。翌年四月、賤ヶ岳において勝家が秀吉に破れ、お市の方は勝家と共に自刃しました。
2.再再婚
両親を失った茶々・お初・お江一一歳の三姉妹は、秀吉に保護され、大坂城で暮らしました。
それも束の間。お江は、織田氏親戚筋である佐治一成(さじ-かずなり)に一二歳で嫁ぐことに。しかし天正一二年(1584)、秀吉が小牧・長久手で徳川家康・織田信雄連合軍と争うと、一成は家康の味方をして秀吉に怒りを買います。一成とお江は秀吉によって引き離され、お江は一年で大坂城に出戻って来ました。
お初が京極高次と結婚して、茶々が秀吉の側室なり、お江は秀吉の甥・秀勝と再婚。しかし秀勝は文禄の役で死去。お江は、秀勝との間にできた娘の完子(さだこ)を連れて一年で再び大坂城へ出戻って来ました。
文禄四年(1595)お江二三歳は、家康三男の秀忠一七歳と結婚。これによりお江は、娘の定子と引き離されました。秀吉が子連れでの再婚は体裁が取れないと、徳川家に気を遣ったようです。しかし大坂城に残された完子は、淀殿によって大事に育てられました。
3.春日局という怪物
お江と秀忠との間に竹千代(家光)が生まれましたが、生来身体が弱く、おっとりして無口、気の利かない子どもでした。
対して弟・国千代(くにちよ)は、利発で人見知りしない性格であったため、お江に加え秀忠まで国千代を偏愛。
次期将軍は国千代という噂が江戸城中に広まり、国千代派と竹千代派に色分けされ、幕閣・井伊直政らの声におされ大勢が国千代に傾いていました。竹千代は悲しみの余り短刀を握りしめ自殺しようとしましたが、お福が思いとどまらせました。
お福は意を決して、駿府にいる大御所・家康を訪ね、将軍夫妻の態度や竹千代の立場を申し述べました。果たして家康は、乳母の分際でありながら子の問題ごときで出しゃばり女と激怒。
間もなく家康は鷹狩と称して江戸城に来訪。兄弟は連れだって迎えに出てきましたが、家康は竹千代の手を引いて上段に座らせました。国千代も上がろうとしましたが、家康は「国千代、呼ばれもしないのに何じゃ。」と言って下段に着かせたといいます。竹千代は家臣や侍女の居並ぶ前で、嫡子として扱われたのでした。
翌年家康が他界、元和九年一月にお福の長男・正勝が老中に就任。同年七月に秀忠が四五歳にして将軍職を辞職、家光二〇歳が三代将軍職に就任しました。
御台所にまで上り詰めたお江はここに来て、無位無官の乳母上がりに敗れて――まるで姉・淀殿の晩節を味わうかのように――寛永三年(1626)五四年の生涯を閉じました。
お江の死去直後に、待っていたとばかりにお福四八歳は、大奥御年寄の座について奥向きの実権を握りました。紫衣事件にあたっては、秀忠の内意を受けて上洛。後水尾天皇に拝謁し、春日局と称しました。
お江 相関図
徳川氏
子供:二男五女
- (長男:長丸は早逝)
- 次男:家光(竹千代)、
- 三男:忠長(国松、国千代、国丸)
ライバル
- 家光乳母:春日局(福)
親類縁者
浅井氏
織田氏
柴田氏
- 養父:勝家
DVD
「江 姫たちの戦国」は、平成二三年(2011)の大河ドラマ。余り期待せず見始めたところ、面白く最終回まで私はリアルタイムで全話視聴してしまいました。
ドラマではたくさんの武将が出てきますが、特に柴田勝家(大地康雄)と豊臣秀次(北村有起哉)が魅力的で心に残りました。富田靖子演じる春日局も要チェック。♪
参考文献
- 島津隆子「御台所に挑んだ乳母の画策」『女人たちの江戸城大奥 (別冊歴史読本)』(新人物往来社、1995年)14-24頁
- 山本博文 監修『大奥列伝 ヒロインたちの「しきたり」と「おきて」』(世界文化社、2008年)「春日局VSお江与の方」6-7頁