プロフィール
伊達政宗のいとこで家臣。成美でなぐで成実だべ。幼名は時宗丸。
仙台藩亘理(わたり)城主。著書『成実記』
伊達一門として人取橋、摺上原の戦いなどで功をあげる。葛西・大崎一揆鎮圧の際は、蒲生氏郷が政宗に疑念を持ったため、氏郷の人質となった。
すぐに伊達家に戻り、重用されるも出奔。人質の方がマシだった?
享年79(1568-1646)。
詳細
出自
伊達一門筆頭の成実は、一四代稙宗(政宗の曽祖父)の三男・実元(さねとも)の子。母は一五代晴宗(政宗の祖父)の娘により、政宗より一歳年下のいとこにあたります。
天正一三(1585)、成実は一八歳で家督を継いで、大森(福島県)城主となりました。同年、小出森(おでもり:福島県)城を攻めて落城させた際は、政宗の命を受けて城内の男女八〇〇余人を全て惨殺しました。
奥州仕置
豊臣秀吉の小田原攻めに遅参した政宗に対し、成実は全面対決を主張。しかし天下の趨勢(すうせい)は秀吉に傾いており、政宗は仕方なく小田原に出向いて行きました。これに対し成実は、万が一のことがあれば秀吉と戦う覚悟で、東北の地を守りました。
天正一八年(1590)六月、政宗は小田原に参陣し、前年に切り取った会津を没収されましたが、豊臣大名としての地位を安堵され、国元に帰還。今度は秀吉自身が奥州に出発し、太閤検地を含む大名・国人の支配地の再編成を指令しました。
会津下向途中の宇都宮で秀吉は、葛西・大崎両氏の所領没収のことを決定。葛西・大崎領の仕置は、同年八月、蒲生氏郷が大崎義隆の中新井田(なかにいだ)の城を受け取ったことから始まり、政宗がその案内をしました。十月、浅野長吉(長政)以下の上方勢が去るや否や、葛西大崎のあちこちで一揆が勃発。
新領主・木村吉清の暴政が原因でした。長吉は、白川郡白川で一揆蜂起の報せを聞き、一揆退治をするよう、政宗と氏郷に指令。しかし氏郷は大崎義隆の居城であった玉造郡名生城を攻略し、ここに籠城してしました。伊達家の家臣・須田伯耆という者が、政宗の謀反、一揆勢へ同心を氏郷に密告したからでした。
氏郷の人質
栗原郡佐沼で一揆勢に囲まれた木村吉清父子は、政宗により救出されました。しかし氏郷の政宗へ疑念は晴れず、留守上野介政景(政宗叔父)・伊達藤五郎成実のうち何れかを人質として差し出すことを要求。
そのとき両人は大崎表へ出陣。翌年一月元旦、政宗の指示を受けた成実二四歳は、名生城に着き、氏郷と対面。氏郷は、成実と共に直ちに名生を発って、五日に人質成実を政宗の宿所飯坂に返し、二本松に着きました。
出奔
この氏郷との対立の処罰として、政宗は秀吉から国替えを命じられました。この時、成実の上席に留守政景などが置かれ、成実は伊達家のこの序列に不満を持ち、腹を立てて出奔。(理由は諸説あり)
そうして浮浪人生活を送り、上杉景勝に招かれたこともありましたが断りました。その後成実は、出奔理由?の留守政景などの説得により、伊達家に帰参し亘理(わたり)城主となりました。こうして再び伊達家一門衆として今度は大坂の陣で活躍するのでした。
著書『成実記』は、天正一二(1584)~文禄四年(1595)に至る軍記と政宗の逸話集からなります。
伊達成実 相関図
伊達氏
その他
- 小田原合戦:北条氏政
主家を出た武将
参考文献
- 黒田和子『浅野長政とその時代』(校倉書房、2000年)「第九章 葛西大崎一騎」220-227頁
- 大石直正「5章3 葛西・大崎一揆」『宮城県の歴史(県史4)』(山川出版社、1999年)143-147頁
- 七宮涬三「伊達成実」『天下取り採点 戦国武将205人』(新人物往来社、1998年)28頁
- 小和田哲男 監修『ビジュアル 戦国1000人』(世界文化社、2009年)「伊達成実」99頁