1.経歴
- 天文二二年(1553)美濃国(岐阜県)生まれ。通称久太郎。美男子だったようで、一三歳で
信長の小姓になる。
- 信長の顕如の石山合戦における雑賀・有岡城、伊賀攻めに従軍。
- 天正一〇年(1582)六月
明智光秀VS
羽柴秀吉の山崎の戦いでは、羽柴軍に大きく貢献。
- 同一三年(1585)八月、越前(福井県)北庄(きたのしょう)城主、一八万石。善政で民百姓から上は秀吉まで皆から慕われている。
- 天正一八年(1590)豊臣軍として小田原合戦に参陣した際、陣中で病死。享年38
結論:短所なんかありません!唯一肖像がおかしい?
2.横顔
顔
1.目が横に長い。2.寄り目。3.顔のカタチは逆三角形。
体全体はとても細身で、美少年の面影があります。苦労多かったのか、早世にも関わらずしわの数が多いです。
家紋

堀秀政の家紋は手裏剣です。嘘です。
戦国時代の釘抜きをかたどってます。昔はこの釘抜きとテコを合わせて釘を抜いたとのこと。縁かつぎとして「苦を抜く」の意味とかけています。三好氏も同じ家紋です。
何故突然、家紋を紹介したかというと簡単に作成できたから。
お金の使い方

秀政には、秀種(ひでたね)という弟がいました。秀政は秀種に城の修理を任せたましたが、秀種の仕事ぶりは大雑把。秀政は秀種をきつく叱りました。
すると秀種は逆ギレして出奔。秀政は、出奔した弟・秀種がお金に困ってはいけないと思い、家臣に大判一〇枚を渡しそれを急ぎ届けさせました。
秀政が秀種に渡した大判は、使い古された紙で包まれてありました。秀政曰く、普段は古い紙を丁寧に取っておくことができる自分だから、万が一の時は大判一〇枚バーン!と使えるというのです。
うっぜー!もとい、兄弟想いでしっかりしてるんですね。
3.堀氏その後
新井白石曰く「秀政が死んだとき、身分の上下を問わず惜しい人を死なせたとなげいた。世間で、彼のことを、品行左衛門とあだ名で呼んだほどだ。」
秀政死後、弟の秀種は豊臣秀次に仕え、最終的には
前田利家の子・利常に仕えたそうです。
秀政長男の秀治(ひではる)は、慶長三年(1598)越後(新潟県)春日山城主、四五万石。しかし子忠俊のとき内紛がおこり、一五年改易。秀政次男・親良(ちかよし)系統は信濃(長野県)飯田藩(二万石)藩主として幕末まで続きました。
参考文献
- 小和田哲男 監修『ビジュアル 戦国1000人』(世界文化社、2009年)「堀秀政」35頁
- 奈良本辰也 監修『戦国武将ものしり事典』(主婦と生活社、2000年)「堀秀政_戦国武将家紋」314頁
- 羽生道英「堀秀政」『天下取り採点 戦国武将205人』(新人物往来社、1998年)151頁
- 小和田哲男「堀氏」左同(監修)左同・菅原正子・仁藤敦史(編集委員)『日本史諸家系図人名辞典』(講談社、2003年)583-586頁