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プロフィール

土佐国(高知県)の戦国大名。幼名は千熊丸。
長宗我部元親の四男。元親死後、二五歳で家督を継いだその翌年に関ヶ原の戦いを迎える。西軍に属すが、傍観しているだけで戦闘に加わらなかった。
戦後、命だけは助かるが土佐の領土を没収される。京で寺子屋の師匠などをしていたが、豊臣秀頼に招かれ大坂の陣に参陣。
再び西軍に属し、今度は奮戦するが――!
享年41(1575-1615)。
詳細
1.長宗我部氏とは
盛親は天正三年(1575)、長宗我部元親の四男として土佐国(高知県)に生まれました。
長宗我部氏は、百済から渡来した秦(はた)氏の末裔で、四国探題細川氏に仕える土佐の名門家。氏名は長岡郡宗部(そかべ)郷を本拠としたことによります。
曾祖父の代に領土のほとんどを失い、祖父国親が再興、父元親が土佐一国を治めるに至りました。元親長男は秀吉の九州征伐に従軍して戦死。次男、三男は他家を継ぎ、元親死後の慶長四年(1599)に家督を継ぎました。
2.関ヶ原の戦い
翌年の関ヶ原の戦い。徳川家康の所まで書状が届かなかったため、西軍に与(くみ)することになった盛親二六歳。しかし合戦がはじまり、西軍が不利とみると全く動かずに帰国。
何しに来たかわからないこの態度は、小早川秀秋の裏切りの次に評判の悪い武将というレッテルを貼られ、領国の土佐国を召し上げられました。
井伊直政の取り成しで、命だけは助けられました。
3.大坂の陣
その後、盛親は京都にて大岩祐夢と号して、学者や公家と交際したり、寺子屋の師匠などをしていました。同一九年(1614)、豊臣秀頼に招かれ大坂の陣に参陣。
大坂夏の陣では、藤堂高虎の部隊に打撃を与えました。しかし井伊の部隊に多くの部下を失います。翌日戦線を離脱。捕らえられ、六条河原で処刑されました。享年四一。
何故自害をしないのか問われると、木っ葉武者のように討ち死や自害はできないと答えました。
長宗我部盛親 相関図
長宗我部氏
- 祖父:国親、父:元親
- 兄:信親・親和・親忠
大坂の陣西軍
参考文献
- 奈良本辰也 監修『戦国武将ものしり事典』(主婦と生活社、2000年)
- 小和田哲男 監修『ビジュアル 戦国1000人』(世界文化社、2009年)208頁