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戦国人物解説

毛利勝永(もうり-かつなが)戦国最後の先鋒を飾った将

目次

プロフィール詳細相関図参考文献関連記事

プロフィール

毛利勝永
Katsunaga Morui

豊前の武将。大坂の陣・真田幸村の相方。

関ヶ原の戦いでは西軍に属して、小倉城で東軍の黒田官兵衛と戦う。

西軍敗北により領地が没収されると、土佐の山内一豊の預かりとなる。豊臣秀頼からの誘いを受けて、土佐を脱出。

大坂の陣が起こり、最後の激戦の日。勝永は家康方先鋒・本多忠勝次男・忠朝(ただとも)と松平忠直勢を蹴散らし、家康本陣へと突き進む――!

享年41?(1575?-1615)。同世代は光海君長宗我部盛親浅野長政江(小督)

詳細

慶長前期地図_九州地方
図2:慶長前期地図_九州地方

豊前(福岡県東部と大分県北部)に一万領する毛利氏は中国地方毛利氏とは特に縁はなく、前姓は「森」でした。父は豊臣秀吉秀吉家臣の勝信で、秀吉に命によって毛利に改姓。

慶長五年(1600)関ヶ原の戦いでは西軍に属して、小倉城で黒田官兵衛黒田官兵衛と戦いました。西軍の敗北で領地は没収され、土佐の山内一豊山内一豊に身柄を預けられました。しかし徳川家康徳川家康の最後の攻撃目標・豊臣秀頼豊臣秀頼から誘いがきて、土佐を脱出。

大坂の陣には真田幸村真田幸村が息子の大助を連れていました。勝永も息子を連れてたので、似た境遇の幸村を勝永は意識していたようです。

夏の陣では後藤又兵衛と幸村と勝永、三人一緒に攻めるはずでしたが、幸村と勝永は出遅れて又兵衛は戦死。

その翌日――最後を飾る激戦の日。口火を切ったのは本多忠勝本多忠勝の次男・忠朝(ただとも)と松平忠直(結城秀康の嫡男、家康の孫)でした。

大坂方先鋒の勝永は、松平勢を蹴散らし、正午には忠朝三四歳を討ち死にさせました。その後も快進撃を続け、家康本陣へ突き進みました。

また幸村隊は一直線家康本陣にめがけて突進。幸村・勝永の強襲は家康の予測しておらず、本営は崩れてしまい、家康、まさかの敗走となりました。

大坂方は多勢に対してよく戦いましたが、幸村隊の壊滅。大坂方は総崩れとなり、勝永は自害。秀頼を介錯したのは勝永との説もあります。こうして約一世紀にわたる戦国時代が終わったのでした。

毛利勝永 相関図

大坂の陣 西軍

真田幸村後藤又兵衛長宗我部盛親塙団右衛門木村重成

改姓した武将

北条綱成立花道雪および宗茂細川藤孝浅野長政加藤嘉明小早川秀秋…現代の男性より多い?

参考文献