春日局とは
春日局(生:天正七(1579)美濃~没:寛永二〇(1643)江戸)の名は、福。
福の父は光秀の家老・斎藤利三(としみつ)で、四歳のとき山崎の戦いで秀吉に敗れ殺されました。お福は、稲葉一鉄と血縁の母・おあんとともに、丹波(京都府)亀山城を脱出し、縁者の長宗我部氏を頼り、四国へ逃れました。
一三歳の時に京の三条西家公に奉公し、有職故実や和漢、特に礼儀作法を習得。四年後、小早川秀秋の家臣・稲葉正成(まさなり)に嫁ぎました。関ヶ原合戦後に正成の愛妾を刺殺。子連れで美濃を飛び出し京へ出たところ、「将軍家乳母募集」の高札を見たのでした。
お江と秀忠将軍の子・竹千代(家光)の乳母になったお福。一方のお江・秀忠夫妻は、竹千代の弟の国千代を偏愛。江戸城内は次期将軍を巡って、竹千代派と国千代派に別れて不穏な空気に。
然しながら家康の介入(お福の裏工作ともいう)により、嫡子として扱われ、竹千代が三代将軍に就きました。この後もお福の怪進撃は続き、詳しくはお江の頁に書きました。我が地元・喜多院(埼玉県川越市)には、家光誕生の間と春日局の間が移築され、現存しています。
小袖袴姿
結論:春日局は見た目通り(怖い)。然しながこの素材、邪気を払い「福」を呼んでくれることを願っています。参考:麟祥院所蔵 春日局画像。
肖像の服装は、衣袴姿をより簡略化した小袖袴(こそではかま)姿でしょう。これは小袖(こそで)に直接袴だけをはいただけの姿。小袖袴姿は鎌倉時代から登場し、宮中に留まらず、武家社会にも用いられました。しかし、武家社会ではその寿命短く、次第に袴が省略され、打掛姿や腰巻姿になどに代わり、姿を消しました。
参考文献
島津隆子「御台所に挑んだ乳母の画策」『女人たちの江戸城大奥 (別冊歴史読本)』(新人物往来社、1995年)14-24頁