プロフィール
織田信長家臣団の関東方面軍司令官。
諸国を流浪した末に信長に仕える。戦いぶりが勇猛で、先鋒でも殿(しんがり)でも一益に任せておけば安心だとほめそやされた。
石山の戦いにおいては伊勢長島や木津川口海戦に功があり、甲州征伐においては大将信忠を副将的立場から補佐。
信長死後は調子がくるい、信長の弔い合戦である山崎の合戦はじめ、清州会議にも間に合わない。
詳細
1.遅咲きの信長家臣
滝川一益は、近江国(滋賀県)甲賀郡出身生まれと言われます。
諸国を流浪した末に、三〇代後半で九歳下の織田信長に仕えたようです。そのタイミングは信長初期の戦い・美濃攻めからだったので、信長との親密性は柴田勝家や丹羽長秀の譜代家臣と比べても引けを取らないものでした。
元亀三年(1572)三方ヶ原の戦いにおいて徳川家康三二歳の要請により、織田方の援軍として一益四八歳は佐久間信盛四五歳らと戦いましたが、武田信玄五二歳に敗れました。
2.石山の戦い
信長の天下取りを阻む顕如との一一年にも及ぶ石山の戦い。天正二年(1574)一益五〇歳は伊勢長島の要塞を海上から包囲して、信長の命令で多数の門徒農民を殺害して長島城主となりました。
同六年(1578)木津川口海戦においてこれまた信長の命令で、九鬼嘉隆とともに甲鉄船を建造。これをもってして、顕如の石山本願寺へ兵糧搬入する毛利水軍を阻止しました。
3.甲州征伐
長篠の戦いで武田軍に圧勝した信長は、天正一〇年(1582)二月に武田勝頼討伐の大軍を発しました。先鋒大将は信長長男・信忠でしたが、この若い大将を諌めるよう命じられた一益は副将的立場から同行。
同年三月に勝頼が自害すると、一益は上野国(群馬県)と信濃国小県(ちいがた)・佐久(さく)の両郡を与えられて、前橋(厩橋:うまやばし)城主となりました。しかも上杉氏世襲の関東管領職に任じられました。
これには関東の覇として長く君臨してきた北条氏政・氏直父子にとって見過ごすことができませんでした。
4.神流川の戦い
同年六月二日、本能寺の変により信長が倒れると、一益五八歳の調子がくるい始めます。
一方、北条氏にとってこれ以上の僥倖なく、早速一益を関東から追い出すべく、氏直二一歳は同月一六日、大軍をもって出陣。一八日、武蔵・上野の国境にあたる本庄原(埼玉県本庄市)や金窪城(同県上里町)で合戦が行われ、一益は北条軍を追い散らしました。
一九日、神流(かんな)川の河原で滝川軍一万八〇〇〇と北条軍五万五〇〇〇が本格的に激突。はじめ滝川軍が優勢でしたが、主君なき軍勢。北条軍は三七〇〇余の首級をあげ、一益は上野厩橋城を捨てて、本領の伊勢長島へ逃げ戻りました。
5.賤ヶ岳の戦い
一益は北条氏に敗北したうえ、同月一三日の信長の弔い合戦である山城(京都府)山崎の合戦、同月二七日の織田の後継者を決める尾張(愛知県)清州会議にも間に合わず、信長の葬儀には羽柴秀吉の指令で出席もできませんでした。
一益は、勝家と織田信孝と組んで秀吉を倒すことに。天正一一年(1583)四月、賤ヶ岳の戦いにおいて秀吉が信孝の岐阜城を攻撃したことに対し、一益五九歳は伊勢の亀山・峯の両城を攻め、雪のため動けない北国の柴田勝家を側面から助けました。しかし秀吉に敗北した勝家と信孝が命を絶ちました。
6.晩年
残された一益は、秀吉に北伊勢五郡を秀吉に差出し降伏。翌年四月、小牧・長久手の戦いにおいて、一益は秀吉側に加わり、蒲生氏郷と堀秀政とともに伊勢方面に出陣しました。
しかし織田信雄・徳川家康連合軍の反撃にあい、十数日でいくさを放棄してしまいました。
これに対して秀吉の怒りを買った一益は、出家して越前国(福井県)に蟄居。一益は茶人であり、信長から茶壺を賜ったこともあり、出家後は秀吉を招いて茶会を催しました。
一益が織田で華々しい活躍していた頃。周囲を警戒しながら餌をついばんでいる鶴と、気ままに餌をあさっている雀を見て一益は「わしらはあの鶴のように片時も気が休まることはない」と雀をうらやんだそうです。
信長、勝家、信孝を失い、心がポッキと折れてしまったのか、一益は本当に雀になってしまったのでした。
滝川一益 相関図
滝川氏
- 前田慶次:前田利家の長兄利久の養子。一益の子とも言われる。
織田氏
敵→味方?
参考文献
- 三鬼清一郎「滝川一益」『国史大辞典9』(吉川弘文館、1979年)93頁
- 谷口克広『信長軍の司令官-部将たちの出世競争』(中央公論新社、2005年)
- 江崎惇「滝川一益」『天下取り採点 戦国武将205人』(新人物往来社、1998年)112頁
- 下山治久「第五章 氏直」『歴史群像シリーズ14 真説 戦国北条五代』(学習研究社、1989年)162-164頁
- 奈良本辰也 監修『戦国武将ものしり事典』(主婦と生活社、2000年)「賤ヶ岳の戦い」132-137頁
- 小和田哲男 監修『ビジュアル 戦国1000人』(世界文化社、2009年)「前田慶次」157頁