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戦国人物解説

北条綱成(ほうじょう-つなしげ)同い年の主君氏康を支える無敵の名将

目次

プロフィール詳細:1.実父と義父/2.関東の名門たち

3.河越夜戦/4.玉縄北条氏/5.北条無敗神話

川越城相関図参考文献関連記事

プロフィール

北条綱成
Tsunashige Hojyo

北条氏康の右腕。玉縄城主。幼名は勝千代。

元々は今川氏の家臣だったが、氏康の父・氏綱に何故か異常に認められ、北条家の婿養子となる。

氏綱死去を機に「関東の大盗賊」北条早雲早雲の代より北条氏に煮え湯を飲ませられてきた関東の名門たちが手を結び、八万の大軍をもって綱成守る河越城を包囲。

城を死守すること六ヶ月、氏康が八〇〇〇の兵を率いて来援。ついに運命の夜が明ける――!

享年73(1515-1587)。

氏康と同い年。立花道雪より二つ年下、武田信玄より6歳年上。

詳細

1.実父と義父

綱成の実父は、今川義元今川義元の祖父・義忠の宿老で遠州(静岡県)土方城主・福島正成(まさしげ)とされています。

猛将で有名であった父正成が武田氏との戦いで討死。その後、福島家が今川家の派閥争いに破れると、勝千代は今川氏を追われて相模国(神奈川県)の北条家に仕官しました。

勝千代は北条二代当主氏綱に何故か異常に認めらて、氏綱から名前の一字をもらい綱成と名乗り、また氏綱嫡男・北条氏康氏康の妹を娶(めと)りました。

氏綱が扇谷(おおぎがやつ)上杉氏の本拠・河越城を攻撃して天文六年(1537)手中におさめると、河越城主に氏康の弟・為昌(ためまさ)一八歳、その城代に綱成二三歳に任じました。

同一〇年(1541)氏綱が死去(享年五五)。この跡を、綱成と同い年である氏康二七歳が継ぎました。翌年には為昌が二三の若さで死去しました。

2.関東の名門たち

北条氏康_関係地図
図1:北条氏康_関係地図

氏綱死去は関東各地に伝えられ、同一四年(1545)九月、関東管領・山内(やまのうち)上杉憲政、扇谷上杉朝定(ともさだ)、古河公方(こがくぼう)足利晴氏(はるうじ)連合の大軍が河越城を包囲しました。

上杉家は二つあって、一つは上野国(群馬県)に本拠をもつ惣領家の山内上杉、もう一つが別家の扇谷上杉。扇谷の勢威は、家老・太田道灌(どうかん)の活躍により総領家を上回りましたが、道灌は主君家定によって謀らせ殺害されました。こうしたことが「関東の大盗賊」北条早雲早雲の勢力を拡大させる結果となりました。

長年に渡って抗争した両家は、北条氏に対する危機感から氏綱死去を機に手を結びました。

古河公方は将軍家の一族で、山内上杉氏と対立し、更に幕府軍に攻められ、下総国古河(茨城県)に拠りました。晴氏は古河公方三代目で、このたび河越城奪還を目指す上杉朝定に応じました。

3.河越夜戦

河越夜戦対陣図
図2:河越夜戦対陣図

一方、氏綱を跡を引き継ぎたばかりの氏康・綱成にとっては、いきなりの大きな危機。

河越城将・綱成は、上杉憲政大連合軍八万に兵糧攻めにされたまま、城を死守。城兵三〇〇〇は華々しい討ち死にを覚悟していましたが、氏康は綱成の弟・竹千世を城中へ潜伏させ策をさすげました。

八〇〇〇の兵を率いて来援した氏康は、和睦を装い包囲軍を突破。四月二八日夜半に奇襲を敢行し、上杉朝定以下、多数を討ち取りました。同時に半年にもおよび城を堅守していた綱成は、城門を開くと敵中へ斬り込み、足利晴氏の本陣を一気に突き崩しました。

上杉憲政は上野へ敗走し、かくして北条氏の武蔵進出に道を開きました。

4.玉縄北条氏

綱成はのちに河越城下支配を大道寺盛昌(もりまさ)に任せ、玉縄(たまなわ)城(鎌倉市城廻)を足場に小田原本城や各地の大名との接渉(せっしょう)役となっていきました。

玉縄城は早雲自ら縄張したと伝える堅城で、大規模な城郭。初代城主は早雲次男・氏時、二代目は為昌、三代目が綱成、四代目が綱成の子・氏繁でした。

氏繁も剛勇の人でしたが、教養人で特に絵がうまく、氏繁自筆の鷹の図があります。しかし氏繁は綱成より早く天正六年(1578)四三歳で死去し、玉縄城主五代目は氏繁の子・氏舜が継ぎました。

氏舜の子は不明で、六代目は氏舜の弟・氏勝で、綱成死去の翌年の天正一六年(1588)小田原合戦により最後の城主となりました。

5.北条無敗神話

第二次国府台合戦図
第二次国府台合戦図

話を綱成の時代に戻します。河越夜戦に敗れた上杉憲政は上杉謙信上杉謙信を頼り、永禄三年謙信三一歳は憲政三八歳を伴い大軍を率いて関東に侵攻。翌年三月に小田原城を包囲。しかし城を落とすことができませんでした。

同七年(1564)里見義弘との第二次国府台の戦いなど、綱成は戦場に立っては、北条氏主たる戦いをほぼ全て勝利で飾り、北条無敗神話を作り上げました。

永禄一二年(1569)武田信玄武田信玄が小田原城に向かって進行。長期戦の不利を考えて武田軍は小田原から退却すると、北条軍は追撃して相模三増峠(みませとうげ)において争い、以後北条と武田の戦いは氏康の死まで続きました。

氏康死後、綱成は元亀四年(1573)三月ごろ、出家したらしく「道感」と号して、家督は子の長男康成(氏繁)に譲りました。

綱成の口癖

戦う前に勝つ!

綱成の旗印

地黄八幡/読み方は「じおうはちまん」もしくは「じきはちまん」

川越城

川越城(本丸御殿) 2016年撮影
正面玄関_川越城 外観_川越城 庭_川越城
正面玄関:巨大な唐破風屋根。
侍_川越城 本丸内部_川越城 本丸通路_川越城
御殿内部

川越城は太田道真・太田道灌親子の築城とされ、扇谷上杉氏の居城となり、氏綱がこれを奪いました。そののち河越夜戦が起こり、その顛末は上記の通り。地元なので川越城と天海の喜多院は何回行ったかわかりません(笑)。復元でない現存本丸御殿は川越城、掛川城二条城の三城となります。

北条綱成 相関図

義父(綱成室の父):北条氏綱

主君:北条氏康氏康

塙団右衛門が綱成に仕えたことがあるという伝説があります。

  

参考文献

  • 『歴史群像シリーズ14 真説 戦国北条五代』(学習研究社、1989年)
  • 新人物往来社 (編集) 『天下取り採点 戦国武将205人 』(新人物往来社、1998年)

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イラスト:リアルR35