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戦国武将解説

北条綱成(ほうじょう-つなしげ)同い年の主君氏康を支える連戦連勝の名将

目次

プロフィール詳細川越城相関図関連記事

プロフィール

北条綱成
Tsunashige Hojyo

静岡県出身の北条氏康の家臣。幼名は勝千代。

元々は今川氏の家臣だったが、氏康の父・氏綱に何故か異常に認められ、北条家の婿養子となる。

氏綱死後は氏康の片腕となり、北条家の合戦のほとんどを連戦連勝で飾った。

いくさだけでなく外交も得意。小田原合戦の前に死去。

享年73(1515-1587)。氏康と同い年。立花道雪より二つ年下、信玄より6歳年上。

詳細

綱成は北条姓を名乗っていますが実は元々は今川家の家臣で、福島勝千代と名乗っていました。

実父は猛将で有名な福島正成(まさしげ)とされています。その父が武田氏との戦いで討死。その後、福島家が今川家の派閥争いに破れると、勝千代は今川家を追われて北条家に仕官しました。

勝千代は北条家二代当主氏綱に何故か異常に認められました。氏綱から名前の一字をもらい綱成と名乗り、また氏綱の嫡男・北条氏康氏康の妹を娶(めと)りました。こうして綱成は北条氏の支城・河越城主となりました。

天文一四年(1545)、河越城は関東管領・山内(やまのうち)上杉憲政連合の大軍に包囲されました。背景に、そもそも河越城は扇谷(おうぎやつ)上杉氏の城で、これを氏綱が奪ったのでした。その氏綱が天文一〇年(1541)に死去したとあって、山内・扇谷両上杉氏にとっては最大のチャンスだったのでした。

逆に氏綱を跡を引き継ぎたばかりの氏康・綱成にとっては、いきなり最大の危機。兵糧攻めにされた河越城を死守する綱成。これを救うべく氏康は、数千の兵を引き連れて河越へ出陣。氏康は和睦を装い、包囲軍を突破。激戦の結果、氏康と綱成は敵の十分の一の兵力で勝利をおさめました。

この河越夜戦後、氏康の片腕として綱成は常に重責を担い、戦場に立っては上杉謙信上杉謙信などを相手に、北条氏主たる戦いをほぼ全て勝利で飾り、北条無敗神話を作り上げました。また武人一辺倒の人ではなく、外交も得意としました。氏康死後は、氏康の子・北条氏政氏政を支えましたが、小田原合戦の三年前に死去しました。

これだけは覚えておけ!って何故

綱成の口癖:戦う前に勝つ!

綱成の旗印:地黄八幡/読み方は「じおうはちまん」もしくは「じきはちまん」

川越城

川越城(本丸御殿) 2016年撮影
正面玄関_川越城 外観_川越城 庭_川越城
正面玄関
侍_川越城 本丸内部_川越城 本丸通路_川越城
御殿内部

戦後時代、川越城は河越城と記されました。太田道真・太田道灌親子の築城とされ、扇谷(おうぎやつ)上杉氏の居城となり、北条氏綱がこれを奪いました。そののち河越夜戦が起こり、その顛末は上記の通りです。

私事で恐縮ですが大学は川越にあり、地元なので川越城と天海の喜多院はもう何回行ったかわかりません(笑)。復元でない現存本丸御殿は川越城、掛川城二条城の三城となります。

北条綱成 相関図

義父(綱成の正室の実父):北条氏綱

主君:北条氏康北条氏康/氏康死後は息子:北条氏政北条氏政を支えました。

塙団右衛門が綱成に仕えたことがあるという伝説があります。

  

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イラスト:リアルR35