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戦国人物解説

北条氏康(ほうじょう-うじやす)謙信や信玄のライバルは関東の雄

目次

プロフィール詳細:1.父氏綱の偉業/2.なかった?河越夜戦

3.甲相駿三国同盟/4.第一次 国府台の戦い/5.謙信の小田原攻め

6.小田原衆所領役帳/7.第二次 国府台の戦い/8.越相同盟

9.三増峠の戦い相関図参考文献関連記事

プロフィール

北条氏康
Ujiyasu Hojyo

小田原北条氏三代当主。幼名・新九郎。

上杉謙信武田信玄のライバルにして、慈悲深い政治家であり詩歌に長じた文化人。

人間としての均衡が取れすぎているためか、戦国大名によくある変わったエピソードも特になく、現代においては空気のような存在。

然しながら持久戦と陣地戦という独特な戦法で勝利を重ね、七〇の老人でも構わず参戦させる。また、深酒を避けるために「酒は朝に飲むべし」と布令を出す。

肖像画の顔も長いが、花押もタテにびよーんと長い。

享年57(1515-1571)。

綱成と同い年。立花道雪より二つ年下、信玄より6歳年上。

詳細

1.父氏綱の偉業

北条氏康氏康氏綱の嫡男として、永正一二年(1515)相模国に生まれました。氏康五歳のときに祖父北条早雲早雲八八歳が伊豆の韮山城にて病死。

大永五年(1525)一二月、氏康一一歳のときに房総の里見実堯(さねたか)が江戸(東京)湾から三浦半島に来襲。鎌倉は焼け野原になり、鶴岡八幡も消失しました。

父 氏綱は小田原北条氏の実力や権威を示すために、鶴岡八幡宮を再建に着手し、この一大事業にを成し遂げた翌年・天文一〇年(1541)に五五歳で病死。氏康二七歳が跡を継ぎました。

2.なかった?河越夜戦

川越城外観
川越城 2005年撮影

関東管領上杉氏の宿敵となっていた氏綱の死去は、関東各地に伝えられました。同一四年(1545)上杉憲政(のりまさ)連合軍八万は、氏康家臣北条綱成三二歳が守る河越城を包囲。河越城は扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の本拠でしたが、八年前に氏綱によって奪われていたのでした。

氏康三二歳は「綱成を死なせてはならぬ。」と小田原城から兵を率いて救援に向かい、兵八〇〇〇の軍勢で勝利をおさめました。然しながら河越夜戦は、なかったとする説が昨今では有力です。その説は大きく下記二つ。

  1. 河越夜戦はなかったが、河越を中心とした中小規模の合戦がいくつかあり、それをまとめて河越夜戦として後世に伝わったという説。
  2. 軍記ものに記されたような合戦ではないにしろ、天文一五年四月に河越で相当規模の合戦はあったという説。

上杉憲政が河越で討ち死にした赤堀上野守の娘に宛てた書状を裏付けに埼玉県の各市町村史では、河越夜戦については2の説が最も有力だとしています。

3.甲相駿三国同盟

北条氏康_関係地図
図1:北条氏康_関係地図

天文二三年(1554)二月氏康四〇歳は、駿府の今川義元今川義元三六歳が三河の織田信長織田信長攻略に出かけている際に府中(駿府)に侵入。今川氏と同盟関係にあった武田信玄武田信玄三四歳は、自身が出陣して今川氏を助けました。

このとき今川氏から義元軍師・太原雪斎と弟の建乗(けんじょう)が発ち、建乗のいた善徳寺で氏康、義元、信玄の三人を呼んで戦いを避けることを相談。すなわち戦国時代を代表する三人が一同に会したのでした。

かくして信玄の娘を氏康の子北条氏政氏政に、氏康の娘を義元の子・氏真に嫁入りさせることで条件がまとまりました。これにより上杉謙信上杉謙信、信長、徳川家康徳川家康という強敵を防ぎ、それぞれ領地拡大をしていくには非常に好都合でした。

4.第一次 国府台の戦い

遡ること天文七年(1538)小弓公方足利義明は、房総(千葉県南部)の里見義堯(よしたか)と合して武蔵に侵攻。

下総(千葉県北部)国府台(こうのだい)において、氏綱・氏康父子と義明・義堯連合軍が衝突しましたが、北条方が足利軍の先鋒をあっけなく突き崩して、義明を討ち取りました。

同二三年(1554)以降、氏康は綱成ら一万二〇〇〇余を渡海させ、里見義堯守る上総(千葉県中央部)久留里城を攻撃。しかし守り固く、落とせませんでした。弘治元(1555)義堯の子・義弘が相模に進出。北条方は里見軍に挑みましたが、氏康配下の北条、芳賀、成田氏などの武将が討たれました。

5.謙信の小田原攻め

小田原城
小田原城 2003年撮影

里見義堯は北条氏と対抗するため、上杉謙信と同盟。永禄三年(1560)五月、久留里城は北条の大軍に包囲されましたが、上杉の援軍が上野国(群馬県)の北条方諸城を攻めると、久留里城の囲みを解いて、武蔵に転進して上杉軍に備えました。氏康は戦いにおいて無理をしませんでした。

河越合戦に敗れた関東管領・上杉憲政は、謙信を頼って越後に亡命。同三年謙信三一歳は憲政三八歳を伴い大軍を率いて関東に侵攻。上杉軍に味方する関東の諸将も混じえ、総勢一一万三〇〇〇余騎が進撃し、翌年三月に小田原城を包囲しました。

氏康四七歳は籠城策に徹し、謙信は後方をおびやかされ、六月末に春日山城に帰陣しました。

6.小田原衆所領役帳

氏康は数度に渡り検地を実施。これは代替り検地でもありました。天文一九年(1550)税を段銭(たんせん)懸銭(かけせん)棟別銭(むなべちせん)の三種に整理。領国を富ませ、農民の疲弊を避ける大きな意味がありました。

永禄二年(1559)二月これらの結果を家臣団ごとに整理して書き上げたのが『小田原衆所領役帳』。これにより領国の全貌と家臣団を把握することが可能になりました。

7.第二次 国府台の戦い

第二次国府台合戦図
図2:第二次国府台合戦図

永禄七年(1564)正月七日、氏康・氏政父子は下総と武蔵の境、江戸川を挟んで里見義弘と対陣。

綱成を先陣として松平憲秀(のりひで)、本隊には氏康・氏政、後陣に北条氏照、氏邦、大道寺直家ら総勢二万騎。これに対して里見方八〇〇〇が力戦して、宿老の遠山直景とその嫡男嫡男、富永政家をはじめ北条方の有力部将が討ち死にしました。

大勝に気をよくした里見軍は酒を酌み交わすなど油断。忍びを放ちこの状況をつかんだ綱成軍は、二手に分けて里見軍を挟撃するように氏康に献策。これを採用した氏康五〇歳は八日明け方、北条軍は東西から国府台に布陣する里見軍に猛攻を加えました。

不意を突かれた里見軍。里見父子や武蔵岩槻城主太田資政(すけまさ)は劣勢を立て直せず、第二次国府台の戦いも北条方の勝利に終わりました。

8.越相同盟

永禄三年(1560)五月、織田信長織田信長は今川義元を桶狭間に破りました。義元戦死により、天文二三年(1554)に結ばれた甲相駿三国同盟が崩れていきました。

武田信玄は四男武田勝頼勝頼を嫡男とし、同九年(1566)嫡男だった義信に自害を命じ、義信夫人は実家の今川氏に返しました。怒った駿河と相模は経済制裁として、山国にいる信玄への塩の供給をストップ。このとき(作り話らしいですが)上杉謙信が塩を送った、のでした。

謙信は越後の内乱などもあって、関東へ出撃できなくなっていたので、氏康と和議をして同一二年(1569)閏五月に越相同盟が結ばれました。

9.三増峠の戦い

武田信玄小田原侵攻図
図3:武田信玄 小田原侵攻図

これまで氏康に一番力を貸し、氏康を認めてきた信玄は、越相同盟に激怒。同年一〇月、信玄は厚木、平塚を経て、小田原城に肉薄。信玄は近辺に放火して挑発しましたが、氏康・氏政父子は籠城したままで、敢えて戦おうとしません。しかし信玄の背後を脅かすため、謙信へ信濃への出陣を求めました。

武田軍は長期戦の不利を考えて小田原から退却。これに対して北条軍の追撃厳しく、氏康の子である氏照・氏邦らが相模三増峠(みませとうげ)で帰路を急ぐ武田軍に一撃を加えました。

以後北条と武田の戦いは氏康の死まで続き、その激しさは武田と上杉の川中島の戦いに匹敵するほど。援軍を送ってこなかった謙信に不信感を抱いた氏康。元亀二年(1571)一〇月「謙信と断交して信玄と同盟を結べ」と氏康は氏政に言い遺して息を引き取りました。享年五七

北条氏康 相関図

北条氏

  • 祖父:早雲
  • 父:氏綱、母:養珠院宗栄
  • 弟:為昌(ためまさ)、氏堯(うじたか)
  • 妹:綱成室、足利晴氏室など五人
  • 妻:瑞渓院(ずいけいいん:今川氏親の娘)、松田氏
  • 息子:次男 氏政以下氏照、氏邦、氏規、氏忠、三郎、氏光

  • 今川氏真室:早川殿、蔵春院殿
  • 足利義氏室:浄光院殿
  • 北条氏繁(綱成嫡子)室:七曲殿
  • 武田勝頼室:桂林院。母は松田氏。最期まで勝頼から離れなかった。

ライバルまたは同盟

参考文献

関連記事:北条氏康