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戦国人物解説

北条早雲(ほうじょう-そううん)還暦後に「関東の大盗賊」へ転身

目次

プロフィール詳細相関図関連記事

プロフィール

北条早雲
Soun Hojyo

小田原北条氏の祖。

早雲は近世以降の俗称で、正しくは伊勢新九郎、実名は盛時。出家後は早雲庵宗瑞(そうずい)と称した。

北条姓は長男氏綱の代から用い、また北条を継ぐ者は代々新九郎と命名された。

足利義政の弟・義視の近士だったが、応仁の乱をきっかけに駿河へ下向。妹は守護大名・今川義忠夫人。義忠死後、甥にあたる氏親の擁立に尽力。

この功により興国寺城主となり、この頃の関東の混乱に乗じて将軍義政の弟の堀越御所を急襲。この時早雲六二歳。次に狙うは小田原城――!

享年88(1432-1519)。

詳細

1.幕臣、駿河へ下向

北条早雲早雲は、備中(岡山県)荏原荘(えばらのしょう:井原市)を領する伊勢盛定の子。三三歳の時に、八代将軍足利義政の弟・義視(よしみ)の近士(きんじ)となりました。

義政夫人・富子に義尚(よしひさ)が生まれると、義視と義尚の後継争いとなり、応仁の乱の引き金に。応仁元年(1467)政敵に敗れた義視二九歳に従った早雲三六歳は、伊勢に落ちました。

翌二年に状況が好転、義視は京に帰還。理由定かではありませんが早雲は、伊勢に留まり一介の浪人となり、駿河へ下向。早雲の妹・北川殿は、守護大名今川義忠に嫁いでいました。

2.甥を今川当主へ

応仁の乱のさなか文明八年(1476)義忠は、遠江にて反乱軍に襲われ落命。義忠の一人息子、すなわち早雲四五歳の甥の龍王丸はまだ六歳だったので、家督争いに発展し家中は分裂しました。早雲は間に入って、龍王丸が元服(一五歳)するまで義忠従兄弟・小鹿範満が代行する、という案を提示。

提案は受け入れられ、早雲は再び京へ。しかし龍王丸が一七歳になっても、家督は返されませんでした。この妹・北川殿の報により、早雲率いる龍王丸擁立派の軍勢が駿府今川館を急襲。小鹿範満は討たれ、龍王丸は元服して氏親と名乗り、早雲は氏親の後見役となりました。今川義元義元は氏親の五男。

3.深根城の戦い

北条早雲_関係地図
図:北条早雲_関係地図

このころ関東は、関東管領上杉氏が総領家(山内)と別家(扇谷)が対立。このため、鎌倉公方室町幕府に背いたのち、関東の支配にあたるよう将軍・足利義政は、弟政知を鎌倉に送り込みました。しかし政知は関東の中心地・鎌倉に入れず、伊豆の堀越(ほりごえ:静岡県)に在りました。

延徳三年(1491)四月、政知が死去すると家督争いが勃発。明応二年(1493)伊豆半島・沼津の興国寺(こうこくじ)城主の早雲六二歳は、氏親から兵を借りて、堀越御所を急襲。政知長男茶々丸を殺し、伊豆を奪取しました。

茶々丸重臣の関戸吉信は、伊豆半島南東の深根城にて徹底抗戦に入り、これに対して早雲は深根城を包囲。深根城の戦いでは徹底的な殲滅戦を行い、城中の兵、女、子供、法師まで一人残らず首を切り、一〇〇〇ほどの首を深根城のまわりにさらしました。

4.小田原城奇襲

伊豆を制圧した早雲は、堀越御所近くの小山に韮山城を築き、ここを生涯の拠点にしました。次に狙うは大森氏の居城・小田原城。早雲は大森氏と良好な関係を築いて接近。

「伊豆で鹿狩りをした時、鹿が皆小田原城の裏山に逃げてしまった。伊豆に追い返すため、勢子(せこ)を入れさせてほしい」と提案。

これに大森氏は快諾。同四年九月、早雲六四歳は、武勇優れた家臣を大森氏領内に潜伏させ、夜襲の準備完了し、牛一〇〇〇頭の角に松明(たいまつ)をつけて、大群が攻め寄せてくるかのように見せかけ突撃開始。

松明を見た小田原城の兵はびっくり仰天。思いがけない夜襲に大森氏は小田原城から逃亡しました。

5.両上杉軍に大敗北

小田原城を奪取した「関東の大盗賊」早雲に、ようやく山内(やまのうち)家と扇谷(おおぎがやつ)家に分かれて争っていた上杉氏が危機感を抱きました。次に早雲は上杉氏に対して謀っていましたが、山内・扇谷大連合軍によって、権現山城(横浜市)の早雲の軍は大敗北を喫しました。

順調に領土拡大を進めてきた早雲もまた、両上杉軍を直接攻めることができないことをさとり、扇谷上杉氏の重臣にして相模最大勢力・三浦氏を狙うことにしました。

6.相模制圧へ

永正九年(1512)八月、早雲八一歳の軍勢は、三浦氏の本拠・岡崎城(平塚市)を急襲。堅城で早雲は猛攻を繰り返し、翌年には三浦氏当主・道寸(どうすん)は一族ともども三浦半島の新井城に逃げました。慎重な早雲は、新井城を攻めずに鎌倉に玉縄(たまなわ)城を築き、新井城を圧迫。

同一三年(1516)早雲八五歳は、新井城を攻めて、三浦道寸・義意(よしおき)父子は自刃。早雲は二〇年かけて相模を征服しました。早雲八七歳は子の氏綱三二歳に家督を譲り、翌同一六年(1519)韮山城でその生涯を閉じました。それにしても今川氏とは未だ主従のあいだ柄、氏綱は北条氏の独立を目指していくのでした。

北条早雲 相関図

北条氏

  • 父:伊勢盛定、母:伊勢貞国の娘
  • 妹:北側殿(今川義忠室)
  • 子:氏綱、氏時、氏広、宗哲(幻庵)
  • 孫:氏康
  • ひ孫:氏政
  • 玉縄城主 三代:綱成

参考文献

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