プロフィール
信長の三男。別名・神戸信孝(かんべ-のぶたか)。
優秀だけど、生まれながらにしてワンテンポズレてる。
次男信雄より二〇余り早く生まれるが、大人の事情で三男となる。
四国方面軍司令官となり、長宗我部元親を征伐すべく準備を進めるが、父信長と兄信忠が死去し、準備で終わる。
詳細
1.兄より早く生まれる
信孝は織田信長の三男。信長の長男信忠と次男信雄の母は生駒氏(吉乃)。信孝の母は坂氏。信忠とは一歳違い、信雄より二〇余り出生が早かったと言われています。
信孝の母は、身分の低い生まれ且つ信長の側室であったため、正室待遇の生駒氏の子・信雄が次男になってしまったようです。
永禄一一年(1568)信孝一一歳の時、伊勢の豪族・神戸具盛が信長に降伏。具盛に子がないのに乗じて信孝は養子になり、信長の命で神戸家の家督を継ぎました。このため信孝は神戸信孝(かんべ-のぶたか)とも呼ばれています。
石山合戦において天正二年(1574)信孝一七歳は尾張・伊勢一向一揆の討伐、翌三年の越前一向一揆の平定、同五年の雑賀衆の征伐、荒木村重の有岡城攻めなどで活躍しました。
2.幻の四国方面軍
石山合戦を終結させ、宿敵武田氏を滅ぼした信長の次の軍事目標は中国と四国の平定。
四国では土佐の長宗我部元親の勢力が拡大。信長は明智光秀を使って元親を服属させようとしましたが、元親はこれに応じませんでした。中国には既に羽柴秀吉を派遣、四国に対しては信孝を派遣することになりました。これは、これまで元親の取次役を担ってきた光秀を不安に陥れるものでした。
織田家臣団四国方面軍は司令官に信孝、副将に丹羽長秀・蜂屋頼隆・津田信澄(織田信行の長男で光秀娘婿)の三人。以下、伊勢衆や雑賀衆を加えた当軍勢は、大坂・堺・岸和田あたりに集結し、出陣の準備を進めていました。
しかし渡海目前の同一〇年(1582)六月光秀が本能寺で父信長を討ち、渡海がかないませんでした。信孝は津田信澄を光秀と気脈を通じてるとして殺害しました。
3.清州会議
同月、信孝は秀吉とともに山崎で光秀を倒したあと、織田の後継者を決める清州会議が尾張(愛知県)清州城で行われました。
嫡男で長兄・信忠は二条御所で光秀に討たれたため、信孝は次兄・信雄と跡目を争いました。自分の方が信雄より二〇日余り早く生まれたのに、三男にされた恨みが蒸し返してきました。
信雄は信雄で次男の立場を譲りません。この二人で決着をつけるのは返って混乱を招くとして、山崎で光秀を倒した秀吉の推す信忠の子・三法師(秀信)が織田家の跡目に決まりました。
信孝は三法師の補佐役として岐阜城と美濃国を与えられました。この処置が頭にきた信孝は、信孝を推挙した柴田勝家と賛同者滝川一益・佐々成政とともに秀吉を討伐することにしました。
4.賤ヶ岳の戦い
清州会議から四ヶ月後、信孝は戦闘の準備をしていましたが、たまたま季節が冬に向かっていて、北国の勝家が雪のため、出陣ができず戦闘を開始できませんでした。
これを見越した秀吉は天正一一年(1583)四月、信孝の岐阜城を包囲したので、信孝は三法師を引き渡し老母と娘を質として秀吉に和を請いました。
しかし秀吉が一益を伊勢に攻め、勝家の軍を迎え討つため近江に軍を進めると、信孝は長宗我部元親と連携して再び岐阜城に挙兵。秀吉は信雄を岐阜城にあたらせました。
信孝は勝家が越前で敗北したことを知ると意気消沈して、信雄の勧めにより城を開きました。
そのあと秀吉の命で、尾張国知多郡内海(うつみ)野間大坊(大御堂寺)に移りました。ここはかつて源義朝が入浴中、寸鉄を帯びず家来に殺された場所。
信孝は「昔より 主をば内海の 野間なれば うらみを見よや 羽柴御前」と秀吉への恨みの句を詠んで、信雄の命で五月二日に切腹しました。享年二六
織田信孝 相関図
織田氏
四国方面軍
ライバル
味方
参考文献
- 今井林太郎「織田信孝」『国史大辞典2』(吉川弘文館、1980年)848-849頁
- 池上裕子『織田信長(人物叢書)』(吉川弘文館、2012)
- 谷口克広『信長軍の司令官-部将たちの出世競争』(中央公論新社、2005年)
- 江崎惇「織田信孝」『天下取り採点 戦国武将205人』(新人物往来社、1998年)109頁
- 奈良本辰也 監修『戦国武将ものしり事典』(主婦と生活社 、2000年)「賤ヶ岳の戦い」132-137頁