プロフィール
近江国(滋賀県)出身。浅井三姉妹の次女。
夫は近江(滋賀県)大津城主・京極高次で、二人の間に子はない。
大坂の陣では西軍代表として徳川軍との交渉を担当。大坂城内で自害しようとする姉・淀殿を説得を試みるが――
詳細
1.京極高次って誰
天正一一年(1583)賤ヶ岳の戦い。養父・柴田勝家が、羽柴秀吉に敗れてお市の方と共に自害。お初(一四歳?)は、姉の茶々と妹のお江と共に秀吉に保護されて大坂城で暮らしました。
そののち秀吉の勧めで、秀吉の側室・松の丸殿(竜子)の兄で、名門だけど石高的にパッとしない近江(滋賀県)大津城主の京極高次と結婚。高次とお初の間には生涯子供ができませんでした。
ところで高次の父は京極高吉(たかよし)、母は浅井長政の祖父・亮政(すけまさ)あるいは父・久政(ひさまさ)の娘。高次の母が久政の娘の場合、松の丸殿・高次と浅井三姉妹はいとこになります。
慶長五年(1600)関ヶ原の戦い。徳川家康方に属した高次は、大津城で西軍の毛利元康(元就八男)の軍を迎え撃ちます。しかし毛利軍の大砲は天守閣に命中し、高次はやむなく開城。
それは奇しくも現地関ヶ原の戦い当日の朝でした。毛利軍に降参した高次でしたが、毛利軍を足止めにした功績で高次は若狭国(福井県)を与えられました。高次は関ヶ原の戦いの九年後(1609)に死去。お初(四〇歳?)は常高院と号し、京極家は高次の側室の子・忠高が継ぎました。
2.交渉人としての活躍
関ヶ原で勝利した家康の次の目標は、姉・茶々と豊臣秀頼預かる大坂城。然しながら同一九年(1614)大坂冬の陣にて真田幸村などの奮闘もあって、大坂城は容易に落ちません。
家康は交渉に踏み切りました。忠高は徳川軍にありましたが、常高院は豊臣方の代表として家康側室・阿茶局(あちゃのつぼね)と交渉を進め、和睦を成立させました。
しかし再び徳川と豊臣とが争うこととなり、夏の陣で豊臣方は敗北。常高院は大坂城内で自害しようとする姉・淀殿(茶々)を説得。しかし淀殿は息子秀頼と共に自害し、ついに落城しました。
大坂の陣の後、若狭国小浜に常高寺を建立。晩年は京極家の江戸屋敷で暮らし、浅井三姉妹の次女として波乱な生涯を閉じました。享年六四
お初(常高院)相関図
親類縁者
京極氏
- 夫:京極高次