プロフィール

織田信長の小姓。美濃国(岐阜県)出身。
実名は成利(なりとし)。長定(ながさだ)という説もあり。
蘭丸は俗称で、乱(らん)、乱法師(らんほうし)と称している。
六歳の時に父と長兄が戦死。次兄・長可が家督を継ぐ。
蘭丸は一五歳の時に織田信長に仕え、小姓となる。信長の寵愛を受け、順風満帆にみえたが、森一族に再び運命の影が忍び寄る――
詳細
1.森一族
森氏は、清和源氏義家(よしいえ)流といわれ、義家の六男義隆が、相模(神奈川県)愛甲郡森荘(同郡愛川町)に住み、森氏を称したのに始まると言います。
子孫は各地に発生し、美濃(岐阜県)に本拠をおいた一族は土岐氏および斎藤氏に仕え、可成(よしなり)は織田信長に仕えました。蘭丸は可成の三男。
美濃金山城主の可成は、それまでの戦功により元亀五年(1570)五月に近江(滋賀県)宇佐山城主となりました。ちょうどこの年、本願寺顕如が打倒信長を掲げ、九月には本願寺と手を結んだ浅井長政・
朝倉義景の三万の兵に攻められて可成は戦死しました。享年四八
長男の可隆(よしたか)はその半年前に越前で戦死。可成のあとは次男・長可(ながよし)一三歳が継ぎました。また信長は長可を嫡男信忠に付けて、大切に育てました。
2.小姓として
次兄長可より一三年下の弟・蘭丸は、一五歳の時に信長に仕え、小姓となりました。
小姓は、殿様の身の回りの世話をする青年のこと。容姿端麗・頭脳明晰であり、また出世街道でもあって大人になれば重要なポストにつける可能性大です。
実際、蘭丸は信長に重用され、奏者(そうしゃ)や奉行を務め、美濃岩村五万石、更に一万石を与えられました。然しながら結構生意気な所もあったようです。
蘭丸が大量の蜜柑を台に載せて運んでいると、信長に危ない倒れるぞと注意されました。蘭丸はその通りに倒れてしまい、翌日同僚に同情されると、蘭丸は主君に恥を欠かせないため、わざと転倒したと返答しました。
3.本能寺の変
信長は蘭丸に「欲しいものを書いてみなさい。自分もおまえが何が欲しいのか当ててみよう」と言いました。
二人が書いたものを見せ合うと、見事に同じで、蘭丸の父・可成の旧領でした。蘭丸が父の旧領を所望してもおかしくありませんが、そこは既に明智光秀の居城・坂本城がありました。
天正一〇年(1582)六月、信長の近侍していた蘭丸一八歳は、本能寺に宿泊中に光秀の突然の謀反にあいました。信長軍は少数の兵しかなく、太刀打ちできません。それでも蘭丸は信長の傍を離れず、同じく信長の小姓で弟の坊丸(ぼうまる)・力丸(りきまる)たちとともに戦って、戦死しました。
4.残された兄弟
信長に仕え各地を歴戦、鬼武蔵と呼ばれた長可は、本能寺の変を知ると、主君と弟たちの非業の死を嘆きました。
秀吉に仕えた長可は、本能寺の変の二年後の同一二年(1584)小牧・長久手で秀吉軍に属して出陣した際に、織田信雄・
徳川家康連合軍を相手に戦い、二七歳で戦死しました。
ことごとく戦死してしまった森一族ですが、末の弟・忠政は生き残り、美作(みまさか:岡山県)津山藩主森家初代となりました。森家は元禄一〇年(1697)いったん改易も、備中(岡山県)国内で再興され、二万石を領しました。
宝永三年(1706)森長直(忠政曾孫)が、播磨(兵庫県)赤穂(あこう)二万石に転封。浅野家の代に引き続いて塩田を開発。以後幕末まで存続しました。
森蘭丸 相関図
森氏
- 祖父:可行(よしゆき)
- 父:可成
- 兄:可隆・ 長可
- 弟:坊丸・力丸・忠政
織田氏
参考文献
- 小和田哲男「森氏」左同(監修)左同・菅原正子・仁藤敦史(編集委員)『日本史諸家系図人名辞典』(講談社、2003年)676-678頁
- 『戦国覇王』戦国大名篇(デル・ブラド・ジャパン社、2002~2003年)
- 奈良本辰也 監修『戦国武将ものしり事典』(主婦と生活社、2000年)「小姓は年中無休で働いた」248-248頁
- 桐生悠生「森長可」『天下取り採点 戦国武将205人』(新人物往来社、1998年)111頁